作家の堂々巡り
割り切りが早いわけではない。忘れてしまうということ自体、普通だとは思わないし、どうしてこんな風になってしまうのか、考えてみたことは何度もあった。
だが、それをいちいち後悔したり悩んだりすることはなかった。ゆっくりち考えることを今まであまりしたことのない敦子は、
「後悔や悩みは、ゆっくりと考えないと解決できないことだ」
と思っていたのだ。
だが、悩むことも後悔することも結構あった。その都度、時間をかけて考えている自分がいる。そのくせ、そんな自分が本当は嫌いだとは思わない。普段から一人で考えることはあっても、ゆっくりと考えることはない。一人で考えていると、勝手に頭の中にいろいろな発想が浮かんできて、それを整理することもなく、先に進んでいる。
――これも忘れっぽくなる原因なのかな?
と考えてしまっていた。
忘却に対して考えていたことがいつも当てはまってしまう。いや、忘却に向かって考えるように無意識ではあるが自分の頭の構造がそうなっているのかも知れないとも思うほどだった。
敦子はまた考え込んでしまっていたが、すぐに我に返った。人と話をしていると、自分の世界に入ることが多いようだ。
「その子とは結局会うことができなかったんですか?」
「ええ、今のところ出会えていないですね。もし出会っていたとしても、面影が残っているかどうか分からないので、本当にその子だったのかなど、分からないんでしょうけどね」
「確かにその通りかも知れませんね。そう思うと何となく切ないお話のような気がしてきますね」
「僕は、実は趣味で小説を書いているんですが、そのことも自分なりに思い出しながら書いたりしていますよ」
「へえ、すごいですね。この間お話した時もどう感じたんですが、今日も何となく書き手の言葉っぽい感じがしたのは気のせいではなかったんですね」
「ええ、でも本当に趣味ですので、大したことはないです」
「そうですか? 私も以前は小説を書いてみたいと思って挑戦してみたことがあったんですが、すぐに挫折しました」
「それは皆が通る道だと思いますよ。最初から文章が続く人なんてなかなかいないですよ。しかも完結するお話を書くというのは本当に難しいことだと思います」
そ言いながら、彼は額の汗を拭った。
「誰もができることでないことをできるというのは、私にとっては尊敬の念に値します」
と敦子は言ったが、それは相手を見て冷静に考えている自分を意識してのことだった。
彼を見ていると、確かに悦に入っているように見えるが、そこに嫌味は感じられなかった。
――俺は他の人とは違うんだ――
という上から目線を感じない。
それが彼の素直さなのだとは思ったが、なぜか敦子には少し物足りなさが感じられた。
――この人には自分というものを他の人と違うという感覚で持っていてほしい――
と感じたのだ。
ただそれも敦子が、
「冷静な目で相手を見ている」
という感覚でいるからなのかも知れない。
彼の本当の姿はそこにはなく、隠しているのであれば、それを見切るには敦子も自分の世界に入る必要があるだろう。今目の前で正対している彼に対して、ここで自分だけが自分だけの世界に入るということは許されないと感じたからだ。
「どんな小説をお書きになるんですか?」
「僕は奇妙なお話が書けレアいいと思っているんですよ。最後の数行で、『こんな話だったのか』と読者が思ってくれればそれでいいって話ですね」
「いいですね」
「でも、これはあくまでも趣味ですので、人に読んでもらうというのが本当の主旨ではないんです。とにかく自分が考えていることを書くというのが僕のポリシーのようなものなんです」
「そうですよね。趣味なんですから、それでいいと思います。でも、作家の中には読者を意識せずに書いておられる方もいるのではないでしょうか?」
「いるかも知れませんね。でもプロは本を売ってなんぼですので、出版社の意向には逆らえません。出版社は読者第一ですから、結果的には作家も読者を意識しないわけにはいかないんですよ」
彼の話はよく分かった。
「あなたの作品を読んでみたいですね」
と敦子がいうと、一瞬彼はテレたような顔をしたが、今度は困ったような表情になり、
「それは難しいことではありますが、読んでもらえればいいと思います」
と意味深な回答だった。
だが、その言葉にはどこか他人事のようなところがあり、
――この人にしては珍しい――
と感じさせるものでもあった。
「大丈夫ですか?」
敦子は思わずそう言ってしまって、一瞬ハッとしたが、その時の彼の様子には明らかな矛盾があったからだ。その矛盾がどこから来ているのか分からなかったが、敦子は思わず聞いてしまっていた。
「私も実は小説を書いたことがあったんです」
と敦子は話した。
「そうなんですか?」
「ええ、文学新人賞に何度か応募したりもしましたけど、一次審査すら通過することがなかったほどなんですけどね」
と言って、テレながら笑った。
「一度読んでみたいです」
敦子は今まで自分の小説を人に読んでもらったことはなかった。
自分で小説を書いていたということは本当に過去のことで、どうかすれば、書いていたという事実も忘れてしまっていた。そういえばすぐに忘れるようになったのは、小説を書くようになってからのことで、忘却を感じた時、自分には小説は向いていないと思い、やめたのだった。
それをいまさら人に読んでもらいたいと思ったのは、よほどの心境の変化があったからに違いない。目の前にいる新田によほど読んでもらいたいと思ったのだろう。新田も自分で小説を書くという。その思いに共鳴したのかも知れない。
敦子の書く小説は、どうしても山田大輔の影響を受けているせいか、奇妙な話が多い。ラストの数行でどんでん返しのようなものを描きたいと思って書くのだが、途中が中だるみしてしまうからなのか、どうしてもラストが中途半端で、強引に大団円を迎えるという作風に嫌気がさしていた。
しかも、自分は経験という意味であまり発想が豊かではないと思っている。そのため、似たようなシチュエーションになってしまい、そのことで途中筆が進まなくなることも少なくなかった。小説というのは思い立ったら一気に書いてしまわないと、自分が書きたいことを見失ってしまい、支離滅裂なラストになってしまうことも必至であろう。
そのうちに、
「別にプロになろうなんて思っていないから」
と思って、開き直ることで何とか書けるようになったが、継続までは至らなかった。
「もう、今は書いていないですけどね」
というと、
「そうなんですか。もったいない」
という彼の言葉を聞いた時、敦子はビクッとした。
――もったいないって、どういうことなの?
頑張ればモノになるということが言いたいのか、それとも敦子が考えていることを看破したからなのか、敦子はもう一度考えていた。
「きっともう少し頑張れば継続くらいはできたのかも知れませんね」
と敦子がいうと、今度は新田の方が少し訝しい表情になった。