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作家の堂々巡り

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 だがその日は人の流れに逆らうという感覚はなかった。いつもに比べて人の数が多いくらいなので、本当ならイライラしてもいいくらいだった。それが朝の通勤時間の喧騒であり、敦子は自分でその喧騒を煽ることが多かった。
 自分の中でだけ煽る喧騒なので、まわりを巻き込むことはないが、中には勘のいい人から見れば、
「この女、何か億劫だな」
 と思われているのではないかと思うのだった。
 そもそも被害妄想というほどではないが、急に相手の身になって自分を振り返るということがあった。いつそんな気分になるかは定かではないし、決まったシチュエーションが存在しているわけではない。
 我に返ったという気分でもない。ただ自分の中で、
――今、誰かの目になって自分を見ているんだ――
 と感じるのだ。
 そう思った時、最初は自分のまわりを見わたしてみることが多かったが、どこからの視線なのか想像もつかなかった。そもそも他人の目と言っても、どの角度から見ているものなのか分からない。ただ漠然と、
「他人の目」
 を感じるだけだった。
 他人の目も、自分が目を瞑っていて感じるものではない。自分はキチンと前を見ているのだ。だから、最初の頃はまわりを見渡してみていた自分も、今ではまわりを気にしないようにしている。その方が、視線の先が見えるような気がしたからだ。
 だが、結局まわりを意識しなくても、自分を見ている、
「もう一つの自分の目」
 を感じることはできない。
 きっと見えないものなのであろう。
 自分を見ている他人の目を感じているわけではない。もしそうであれば、その人が感じていることも一緒に分かるのでないかと思ったからだ。
 敦子にとって自分の目が表から見ているというのは、慣れてしまうと、別に戒めのようなものではなく、不定期でありながら、
――定期的なものなのかも知れない――
 と思うようになった。
 定期的と言っても時間の定期性ではない。いわゆる、
「バイオリズムの周期」
 であり、自分の中にある周期が見せるものなのであろう。
 バイオリズムもいくつかの種類があり、肉体的、精神的、いろいろある。それが接する時にどのような変化をもたらすのかは詳しくないが、自分の中に周期があるということだけは漠然と感じることができるのだった。
 まわりから見られている自分を感じることは、小学生の頃からあった。一番強かったのは中学生の頃だったような気がする。
 思春期で、見られているという意識も働いて、女の子として見られていることに恥じらいを感じるようになったからではないだろうか。
「恥じらいというものがあるから、他人を意識するのだし、他人の意識があるから、自分磨きに余念がない人が多いんだ」
 と思った。
 それに間違いはないだろう。実際に敦子にも恥じらいがあった。だが、それは他の女の子とは少し違っていたように思う。自分を綺麗に見せようとか、男の子にモテようとかいう意識ではなかった。一番強かったのは、
「自分が他の人とは違うんだ」
 という目で見られていることを意識したいという自分の思いだったに違いない。
 中学時代に好きになった男の子がいた。それまで男子を男の子として意識したことがなかったので、自分でもこの思いが何であるのか分からなかった。いわゆる初恋だったのだろう。
 その男の子は比較的モテる子だった。女の子から人気があったのは、別にイケメンというわけではなかったが、端正な顔立ちが印象的だったからだろう。
 清潔感に溢れていて、誰にでも分け隔てのない優しさが醸し出されていた。
 だが、敦子は比較的早めに彼を見限ったような気がする。
「自分は他の人とは違う」
 という意識があった敦子は、誰にでも優しい彼を見ていて、次第に気持ちが冷めてきたのを感じた。
 誰にでも優しいということは、自分に優しい分、他の人にも優しいということだ。普通なら、意地でも自分だけを見るように自分をアピールしようと思い、他の女性を敵に回すくらいの気持ちを持つものなのだろうが、敦子はそれを好まなかった。
「自分だけを好きになってくれる人」
 を地道に探す方がいいと考えたのだ。
 だが、そんなに都合のいい人が現れるわけでもない。どちらかというと他人の目には鈍感な敦子なので、本当は陰で思ってくれている人がいたとしても、それに気づかずにやり過ごしてしまったという可能性もあるだろう。そうこうしているうちに相手は違う女性を付き合い始める。それが敦子の運命なのかも知れない。
 それでもよかった。少なくとも敦子の知らないところで行われていることだからである。
「知らぬが仏」
 というが、まさにその通りである。
 敦子がそのことに気付くようになったのは大学に入ってからで、その頃から、
「過ぎてしまったことをくよくよ後悔するのはやめよう」
 と思うようになった。
 知らぬが仏ということもあるのだから、過ぎてしまったことの中には、やりようによってはうまくいったこともあったかも知れない。だが、それをいちいち気にしていては先に進むことができないと思うようになった。
 敦子は過ぎてしまった日々を後悔した時期があった。
 あれは高校生の頃だっただろうか。ちょうど思春期が終わるか終わらないかという頃だったのだが、他の人のことは分からないが、敦子には、
「思春期が終わる瞬間」
 というものが、漠然としてではあるが分かっていたのだ。
 その時になって。一つの自分の中での時代が終わりを告げると思ったことで、急に後悔の念が襲ってきたのだ。
 自分の中の節目に関しては形のあるものではないので、普通は意識しないだろう。意識するというのは、学校の入学や卒業、進学の時期などは、気分も新たに望むことがある。クラスメイトも別れてしまって、寂しいという気持ちとともに、心機一転を望んでいるのだ。
 だが、それは自分が決めたことではない。全員漏れることなく味わうことである。年上の人は通り過ぎてきた道であり、年下はこれから通り過ぎる道になるのだ。
 いわゆる他力本願には、自分の気持ちが伴うことはない。しかし、同じような道を皆が歩んでいるのだが、人それぞれで違う道というのは、あくまでも漠然としてでしか感じることはできない。それを意識して歩んでいる人がいれば、話を聞いてみたいくらいのものだった。
 思春期の終わりが何を持って終わりというのか、なかなか意識としてはあっても、言葉にできるものではない。しかし敦子はある感情があった。それが、
「自分を客観的に見ることができるようになった」
 ということであった。
 それも漠然としていた。どのように見えるのか分かったわけではない。だが、他の人の目線から見れる自分がいることに気付いてしまうと、それが思春期の終わりだという自覚があったのだ。
 見えるようになった時期と、ちょうど思春期が終わる時期が一致しただけのことなのかも知れない。しかも、
「見えるようになったから思春期が終わった」
 と思ったのか、
「思春期が終わったと思ったから、見えるようになったのか」
 と言われると、どちらなのかもよく分からなかった。
作品名:作家の堂々巡り 作家名:森本晃次