作家の堂々巡り
しかし、結婚するカップルよりも、実際には離婚する夫婦の方が多いというアンケートも聞いたことがある。結婚してしまえば相手はいつも自分のそばにいて、自分のものだという錯覚に陥ったとしても仕方がないだろう。
結婚したからと言って、相手のすべてが自分のものになるわけではないことは、誰もが頭では分かっているだろう。しかし、征服欲が満たされてしまったことで、相手に求めるものは、当たり前という感覚になるのだろう。
実際に結婚してからしばらくすると、
「妻をオンナとして見ることができなくなった」
あるいは、女性の方も、
「旦那をオトコとして感じることができなくなった」
という人もいるだろう。
どちらも同時にそう感じるわけではない。どちらかが最初に感じ、疑問に思うことで悩むに違いない。貞操観念がある人ほどそうだろう。
「不倫は悪いことだ」
と頭では思っても、どうしても女として見ることができなくなった相手に性欲が湧いてくるはずもない。
そのはけ口は他の女性に向けられるのだ。
女性の方からすればどうだろう。結婚して家庭を持った男性が、何かを悩んでいる。独身女性であれば、そんな男性の弱い部分を見て、母性本能をくすぐられる人もいるだろう。そうなると、お互いに性に溺れる可能性も大きくなってくる。
逆に既婚者の女性で、夫をオトコとして見ることができなくなった人は、弱って見える「他人の旦那」
が、いとおしく感じられるかも知れない。
それは、結婚する時に感じた夫に対してのものであったり、初めて感じることであれば、自分の悩みを解消してくれる新鮮なものであったりもするだろう。
そういう意味で、不倫が横行するのも無理のないことに思う。決して不倫を奨励しているわけでも賛成しているわけでもないが、これも性欲があるからだと思えば、しかたのないことなのかも知れないとも思う。
だが、考えてみれば、これも元々、征服欲が満たされたことで性欲が減退したことから始まったことだ。征服欲というものの正体が、食欲でいうところの、
「飽和状態」
と考えることができないだろうか。
敦子は、今までに何人かの男性と付き合ったことがあった。そのほとんどの男性と男女の関係になったのだが、中には男女の関係になってしまったことで別れに繋がったこともあった。
別れを切り出したのは相手の方からだった。
「俺たち、別れよう」
というあまりにも唐突の話に、
「えっ、何を言ってるの?」
と露骨に慌てる素振りを見せた敦子だったが、それはわざとではなく、あまりにも唐突すぎて頭の中がパニックになり、恐怖が襲ってきたからだった。
――この人一体何を考えているんだろう?
それまでは、順調にそして確実に仲良くなってきたはずだった。どこにも落ち度はなく、付き合い始めたことも自然だったし、身体を重ねたのも、自然な行動だったはずだ。
あまりにも順風満帆で、怖いくらいだと思っていたが、まさかこんなにすぐにその悪い予感が的中するなど思ってもみなかった。
「怖いくらい」
の、
「くらい」
という言葉は、本当に額面通りのもので、ただお言葉のアヤにしか過ぎなかった。
それなのに、ほぼないはずの可能性の間隙を縫うような発言に恐怖以外の何物も感じることはできないはずだ。
だが、実際に離婚という言葉を言われると、最初はそれほどでもなかったのだが、次第に現実味を帯びてくる。相手に対して気持ちが冷めてきたのもあるだろう。
――私はどうしてこんな人と結婚なんかしようと思ったのだろう
と考えてしまった。
結婚は別にセックスだけが目的ではない。一緒にいて楽しいという思いであったり、頼りになるという思いから、
――この人となら、一生一緒にいてもいい――
と感じることで、結婚に踏み切るはずだからだ。
それなのに、セックス事情だけで離婚を考えるなんて、あまりにも自分のことを舐めていると感じてしまい、
――それならこっちにだって考えがある――
とばかりに、もう二度と気持ちhが戻らない覚悟さえすればいいだけのことだった。
敦子は結婚したことはないが、こういう気持ちはなぜか容易に想像がついたのである。
――離婚なんて、どうってことないわ――
実際に、結婚するカップルよりも離婚する夫婦の方が多いという話もある。別に恥ずかしいことではない。そう思うと、結婚ということ自体が人生の最大のイベントだなどと思った自分が情けなくなる。
「離婚は結婚の数倍エネルギーを使う」
と言われるが、覚悟さえしてしまえば、どうってことはない。
相手を徹底的に憎めばいいだけだからだ。
敦子は今、結婚を考えている相手がいるというわけではない。お付き合いという形で他人に紹介できる人がいるわけでもない。毎日を単純に終わらせようと思わないようにはしているは、どうしても毎日同じことの繰り返しになってしまう。
「それは仕方のないことだもんね」
と自分に言い聞かせていたが、確かにその通りで、昨日と違う今日にしたとしても、また明日は違う日にしなければいけない。
「毎日同じことの繰り返しだと成長がない」
とよく言われるが、果たしてそうだろうか。
同じことの繰り返しであっても、何か継続していることがあれば、それはそれでいいことなのではないだろうか。要するに言葉の使いようであり、どんなに同じことを繰り返していたとしても、それはその日その日で違うことなのは当たり前のおkとではないだろうか。
敦子は読書を続けているが、毎日少しずつ進んでいる。ほぼ毎日のように読んでいるので、趣味としては充実していると言えるだろう。その間にいろいろなジャンルを読んでみた。ミステリーからホラー、SFもあれば恋愛小説もあった。ジャンルで分けることのできないような作家もいる。さらには同じ作家はいろいろなジャンルを書いている人もいる。敦子は読書をしながら、いろいろな作家を研究するのが好きだった。
研究といっても、そんなに堅苦しいものではない。
「この作家は、どんなジャンルが得意で、小説にどんな特徴があるか」
などということであり、作風から、登場人物の命名まで、いろいろな特徴を思い浮かべてみると楽しかった。
――読書には、こんな楽しみ方もあるんだ――
と感じた。
漠然と読んでいるだけでは感じることのない思いを自分独自に感じるというのも、趣味の醍醐味なのだろう。
国道を歩きながらいろいろと考えていると、気が付けばだいぶ駅に近づいていた。普段から一人で歩いている時はいろいろなことを考えることが多いので、
「気が付けば」
というのも珍しいことではない。
だが、その日は何か不思議な感覚があった。
歩きながら考えていることが、突飛もなくいろいろ考えているにも関わらず、思ったよりも筋道立てて考えられていることに、改めて気付かされたのだ。前を歩いている人の背中を追いかけるように歩くのもいつものことなのだが、いつもであれば、もっと目の前の人のことが鬱陶しく感じられるものであり、歩きながらでも、追い越したくなる衝動に駆られることが多かった。