作家の堂々巡り
ふと敦子は視線を道路に向けた。道は相変わらず混んでいて、向こうの歩道を確認するのも難しいくらいだった。歩道をせわしなく歩いている人は見かけるが、こちら側と比べると、さすがに人の数は少なかった。
駅への方向とは逆だし、あちらにあるのは、学校かあるいはどこかの工場くらいだった。よく見てみると制服を着た女の子が何人か集団で歩いているのが見えるくらいだった。
向こうの歩道を気にしているのがどれくらいの時間だったのか、さほど長かったようには思えなかった。敦子は視線を元に戻すと、さっきまで目の前を歩いていたはずの彼女たちが視界川消えてしまっているのを感じ、
――あれ? どこに行ってしまったのかな?
と感じた。
この歩道から横道に逸れる場所は、自分が目を離している間にはないはずだった。幻を見たという意識もないし、何か不可思議な感覚になったが、不思議と恐怖がこみあげてこない自分を感じた。
だが、その思いは言葉にすると、
「不思議と」
という前提で話をしたが、実際にはそれほど不思議な感覚に陥っているわけではない。
どちらかというと、
「受け入れることのできる不思議さ」
であって、言葉では不思議という言葉をつけることができても、心の中ではさほどではないと思うのは、
――自分も感情が死滅しかかっているからなのではないか?
と思うようになった。
最近の敦子は、自分に欲がなくなってきているような気がしていた。
まだまだ二十歳代もこれからだというのに、どうしたことなのだろうか?
これまでが欲望の塊りだったのかも知れないとも思ったが、振り返ってみるとそこまでのことはない。
一時期、欲のために溜まらない気分になることもあったが、それは敦子だけのものではなく、誰にでも経験のあることだと思っていた。
欲というと、食欲、性欲、征服欲、出世欲など、目に見えているものもあれば、本能で感じるものもある。そして、目標とするような今は目に見えないが、目指していくうちにハッキリとしてくる欲もある。唐突な欲、長い目で見る欲、敦子には欲について考えることが、今までにも結構あった。
特に減退してきたと思う欲は、食欲だった。二十代というと、それこそ一番食べる時期で、ダイエットを気にすることとのジレンマで、食欲を抑えることを課題にしているくらいなのに、最初から食欲が失せてしまうというのも、どうしたものか?
確かにお腹は減っていた。テレビでおいしそうなグルメ番組などをやっていると、食べたくて仕方がなくなる。しかし、それが長く続くということはなく、わりとあっという間に食べようという気がなくなってしまっていた。
――見ただけで食べた気になるからなのかしら?
自分でも理屈が分からない。
確かに最初に溜まらないほど食べたいと思った感覚が、
「食べたいんだけど、食べたからと言って、満足できる感覚がない」
と思った。
では食欲というのは、空腹感を満たすだけでなく、満腹になった時に、
「幸せだ」
という満足感に浸ることができなければ、欲求を満たしたということにはならないのではないかと思った。
実際にしばらくしてからおいしいものを食べたあとのことを想像してみたが、どうにも満足感に至るまでには程遠い感覚しかこみあげてこないのだった。
敦子は焼き肉や鍋などが好きだった。未成年の頃は焼き魚や寿司、刺身のようなものも好きだったが、二十歳を過ぎると、魚料理よりも肉料理の方が好きになり、よく会社の同僚と焼き肉屋に出かけたものだ。
敦子は、いわゆる
「一人焼肉」
も平気だった。
むしろ、食事には一人で行く方が多くなってきた。別に仲間とわいわいするのが嫌いだというわけではないが、純粋に食事を楽しむという感覚はやはり一人で出かける方がいいと思ったからだ。自分のペースで味わうことができ、気を遣うこともなく過ごせる時間が一番欲と向き合うにはいいような気がしているのだ。
最近食欲が湧かなくなってきた理由も、何となくであるが分かっているような気がする。いわゆる、
「飽和状態」
になっているのだ。
お腹が減ってからすぐに食べるのであれば、身体が一番欲している時間なので、食欲を最大限に感じることができ、歓喜を満足を一緒に味わうことができるだろう。しかし、少しでも時間が経ってしまうと、錯覚として食べてもいないのに、食べているような気になってくる。そうでもしないと欲求が満たされないと思うからなのかも知れない。だから、よく言われることで、
「お腹が減りすぎて、それを通り越してしまうと、今度は食べたくなくなってくるんだよね」
という言葉に結び付いてくるのだ。
しかも、その間に身体が空腹に慣れてくる。空腹のためにお腹が鳴ったり、胃が痛くなってくるのは、欲求を満たしたいという思いからなのだろうが、慣れてくるということはその欲求を無意識の中で満たそうとしているからだろう。だからお腹が減っているのに、すでに空腹感がなくなってくるような思いになるのではないだろうか。
満たされなくても、満たされたような気分になると、欲求への不満から逃れることができるのである。
以前笑い話で、
「サンマを焼いているところに茶碗一杯のご飯と、箸を持っていき、匂いを嗅いでご飯を食べるだけで、サンマを食したような気分になり、空腹が満たされる」
というのを聞いたことがあったが、これがまさにそんな感覚だと言っても過言ではないだろう。
それがさっき言葉にした、
「飽和状態」
というものである。
欲求を満たそうとするのも一種の欲求であり、それが交互に補っていくことで、満たされる欲求もあるのではないだろうか。
しかし、そうなってくると。せっかくの欲というものが欲ではなくなってくる気がする。人間は欲望があるから頑張れるのだろうし、欲望を簡単に達成できてしまうと、
「では、その後どうすればいい?」
という発想になる。
欲であっても、目標であっても、達成してしまうと、すぐに次の目標を立てることが簡単にできるであろうか? 特に欲というものは、そう簡単なものではない。それを考える上での欲というと、性欲になるのではないだろうか。
人間には性欲というものがある。特に成長期から始まって、中年、初老になるまでその勢いは衰えることなどないのではないだろうか。中には七十歳をはるかに超えても性欲に満ち溢れている人もいる。今の時代では還暦を過ぎても性欲に満ち溢れている人はかなりいるのではないだろうか。
そもそも性欲というのは何であろうか?
男が女を欲し、女が男を欲する。それは物理的な要因であり、理屈としては、種の保存のため、つまりは子供を作るということが根本の理由として性が存在するという考え方である。
そのために、彼氏や彼女がほしいと思い、仲良くなると、相手を征服したいと思う。ここには征服欲のようなものも含まれていて、それが達成され、形となって現れるのが、結婚というものではないだろうか。