小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

作家の堂々巡り

INDEX|18ページ/29ページ|

次のページ前のページ
 

 というのも時間を消したからではないかと思ったこともあったが、柱時計の振り子の音のように規則正しい時間を消すなど、そう簡単にできることではない。
 そう思うと、
――無理に消そうとするのではなく、時間が消えていく状況に身を置けばいいだけなんじゃないかな?
 と思うようになった。
 時間というのは、放っておいても流れ行く中で消えていくものである。未来が現在になり、現在が過去になる。その間に現在が一瞬だけ存在しているというわけだ。
 だが、実際に存在しているのは、その一瞬である現在だけである。時間の流れとまったく同じスピードで進行しているから、人間はすべてを現在として考えることができるのであって、現在以外は別世界のようにしか思えなくなってしまう。
 その流れに逆らうことが、
「時間を消す」
 ということであろう。
 その時に「消えていく時間」という小説を思い出した。
「ある一定の場所で人それぞれで流れる時間が違う」
 というテーマだったが、それが喫茶店という閉鎖的だか開放的な場所での話というところが微妙だった。
 あの小説が、
「消された時間」
 ではなく、
「消えていく時間」
 というタイトルだというのも、実に微妙な気がする。
 人によって消されたわけではなく、消えていくのだ。それは作為的なものではないように思わせるが、敦子にはどうしてもそこに何らかの作為が働いているように思えてならなかった。小説のタイトルに込められた思い、それは敦子が最終的にグループを抜けることになった最大の理由だったのだ……。

                  ゴーストライター

 敦子は喫茶店を出てからしばらくして、いつもの国道に差し掛かった。そろそろ通勤ラッシュもピークに達する時間で、その日は喫茶店に寄ったことにより、普段よりも少し遅い時間に差し掛かることになった。
 時間にして十分ほどの違いであろうか。その十分の違いが明らかにいつもよりも交通量の多さを示していた。ほとんどの車は前に進んでいないように思えるくらいで、アイドリングのエンジンの音だけが響いているように感じた。
 風はなかったが、最初、アイドリングだけしか聞こえていないかのようい思えていた国道から、喧騒とした雰囲気が感じられ、気のせいか、なかったはずの風まで感じるようになっていた。
 敦子は歩道を急ぐように歩いていたが、まわりを見ると自分よりも足早な人が多いことに敦子は違和感を感じていた。
――どうして?
 という思いが敦子の関心を歩道の人たちに一気に向けることになった。
 どうしてもくそもない、皆コートやマフラーで顔を覆うようにしながら足早に歩いていた。敦子が感じているよりも風の勢いは結構あるようで、足早に通り過ぎないと、たまらないと思っている人が多いに違いない。
 自分は別に波に乗る必要がないと思ったので、他の歩行者を意識する必要などサラサラないはずなのに、どうしても気になってしまう。その理由は車道の喧騒とした雰囲気と、歩道をせわしなく歩いているくせに喧騒とした雰囲気を感じることのできない左右の矛盾した光景に戸惑いを感じたからだろう。
――歩行者のほとんどが無表情で、感情の欠片も感じられずに歩いているのも、私と同じような感覚を持っているからなんじゃないかしら?
 と敦子は思った。
 この道は毎日歩いている道で、いつもよりも若干遅いだけではないか。確かに毎日ここを差し掛かる時間に、誤差があったとしても、前後数分でしかない。だから十分と言えどもかなり遅い時間に感じられてしまうのを思うと、やはり無意識ではあるが、まったくここが自分の知っている場所とは違っているという錯覚に陥ったとしても、それは仕方のないことなのかも知れない。
 前を向くと、自分の後ろから左側を予測もせずに通り越す姿が現れる。
――相手は私のことなんか気にしていないんだわ――
 敦子だって、人よりも歩くスピードは速いと思っている。
 だから、人を追い越すことは日常茶飯事だ。そんな状態で追い越した人をいちいち気にするなどということはあるはずもなく、後ろを振り返ることもあるはずがなかった。
 だが、まったく意識をしていないというわけではない。
――追い越した人がムッとして、自分に襲い掛かってくるかも知れない――
 と感じたこともあった。
 被害妄想にしか過ぎないのだが、そんな錯覚に陥るということは、それだけ自分が精神的に弱っている時なのかも知れないとも思ったが、逆に順風満帆の時にも似たようなことを感じることがあった。
 あまりにもやることなすことがうまくいってくると、歯車がカチッと嵌っていて、少しのずれもないことを感じさせる。だが、永遠に歯車が噛み合っているわけではなく、いつかは歯車が狂う時がくるだろう。
 それがかなり経ってからなのか、それとも、これを考えている次の瞬間なのか分からない。将来が分からないという不安に駆られる。
「百里の道は九十九里を半ばとす」
 という言葉もあるではないか。
 少し的外れな発想なのかも知れないが、自分がどこにいるか分かっているつもりの時でも錯覚があるのだから、分かっていない時というのは、ずっと不安が付きまとう。不安が解消される時があるとすれば、図らずも歯車が狂ってしまった時であろう。そう思うと人の不安というのは、皮肉な考えから成り立っているのかも知れない。
 その日はいつもと違い、自分が追い越される番だった。追い越している時は、追い越される人がムッとするだろうと思っていたが、追い越される立場になってみると、それほどのことはなかった。
 初めての感覚だというのもあるかも知れないが、それだけではないだろう。いつもと違う感覚は、却ってそれを意識させる。だから過去に相手に感じた思いが余計に自分の中で強くなり、
――あの時に感じた思いになってみよう――
 という思いに駆られたとしても無理もないことだ。
 むしろ、そんな感覚に陥る方が自然なのかも知れない。人が何かを感じる時というのは、初めてのことであっても、過去にあった似たような感覚を類似して想像するものである。だから自分の過去を探そうとする作業が入る。過去を振り返るというのは、ある意味無意識の本能に近い行動なのかも知れない。
 敦子の横を通り過ぎていった人の背中を凝視してみた。その人がビクッとしたのを感じたが、
――私の視線に気づいたのかしら?
 と感じたが、一瞬だけだったので、その意識が錯覚によるものなのか、自分でもよく分からなかった。
 だが、ビクッとしたのは敦子のせいではないということに次の瞬間に分かった。どうやらその人には連れがいるようで、後ろから追いかけてきた連れから背中を軽く叩かれていた。
「そんなに急いでどうするんだよ。どうせ一時限目に間に合うわけはないだろう」
 敦子を最初に追い越して行ったのは女の子のようだった。
 後ろから追いかけてきた連れは男の子で、会話の様子からすれば、二人は大学生のようだった。
――この時間から一時間目にもう間に合わないということは、電車で通学しているに違いない――
 と敦子は思った。
作品名:作家の堂々巡り 作家名:森本晃次