短編集75(過去作品)
しばらくシーンとしているようだ。薄い壁一つ隔てたところで人が聞いているなど、本当に知っているのだろうか? 見えないだけに想像が想像を膨らませ、波が去った後も、湿気を帯びた重たい雰囲気を伴った空気が隣の部屋に充満していることを感じていた。もちろん、自分の部屋にも……。
壁というものは、向こうが見えないだけに、苛立ちを覚えることもあるが、想像力の世界がこれほど興奮を呼び、エロスの境地を与えてくれるかなど、初めて思い知った康隆だった。
もし見えていたなら、興奮が余韻として残ることはないように思える。見えないだけに、相手の様子をあれこれ想像して、そのまま意識は想像の世界に入り込み、抜けることができなくなっている。きっとこのまましばらくは眠れないだろう。それだけあまりにもセンセーショナルだったのだ。
――どうして、こんなに――
何も考えずに出かけた旅だった。結局は、どこにいっても、どこにいても同じだろうという結論しか得られないはずだと思っていた旅だった。まさか、こんな興奮を味わえるなんて、しかもこの歳でと諦めていたにもかかわらずである。今日の康隆はどれほど若返ったように感じたのだろうか。
本当はいけないことかも知れない。人間的にも、自分的にも後悔が残るような気がするが、今日だけはそんなことは関係なかった。何もかもにやる気をなくし、何かを求めてやってきたはずなのに、求めるものなど、どこにも存在しないことを感じかかっていた矢先のことである。
しいていえば、昼間見かけた女性を想像してしまったことが、康隆にとって後悔になるようだ。清楚な感じで、どこか物悲しげな女性が、男の腕の中で露に乱れる。そんなギャップがたまらない。
きっと、想像の中で見た昼間の海辺の光景が、康隆に昼間の女性を思い浮かばせたのだろう。綺麗な海でなかったことが印象的だった。北海道という荒々しさを感じさせる海は、最初に北海道に行ってみようと感じた広大なイメージとはかけ離れていた。
完全に目が覚めたはずだった。深い眠りの中で、ふっとした油断からか、耳についたあの声、離れなくなって聞き耳を立ててしまったことで、完全に目が覚めていたはずだ。
確かに、糸を引くような声がしたかと思うと、その後にシーンとした静寂、その後にはボソボソと小さな声で話し声が聞こえる。時々、女の甘えたような笑い声が聞こえるが、きっと余韻を楽しんでいるのだろう。
その声が耳について、しばらく眠れそうにないと思っていたのはどうやら錯覚だったようで、気がついたら眠っていた。
朝の日差しが差し込んできて目が覚めたが、枕元の時計を見れば、まだ午前八時前、いくら北海道といっても、朝日が差し込んでくる時間である。
あれは夜の何時頃のことだったのだろう?
意識して時計を見たわけではないので分からないが、目が覚めた瞬間には、ついさっきだったような気がしていたのに、頭がしっかりしてくるにつれ、遠い過去のように思えてくる。なぜなら幻のように感じられるからだ。耳には声はこびり付いているように感じているが、意識はそれを拒絶する。夢だったんだと理性が思わせたいのではなかろうか。
北海道に来て、初めての朝である。
朝日を浴びながら伸びをすると、昨日まで何を考えてここまで来たのか、目的がナンだったのか忘れてしまっていた。
――それにしても、まだまだ若いと思っていたのは、いつまでだったんだろう――
昨夜の声に反応していた自分を思い出すと、反応した自分が誇らしくさえ思える。今でも妻に対しては感じないに違いないが、違う女であれば……。
康隆の中で善と悪が葛藤を演じている。
幸い子供もいない。若い身体に未練がないわけでもないが、妻の自分に対する態度が変わらない限り、性の対象として見ることはできないだろう。そんな中、いつまでも自分を殺して耐えていくことができるだろうか?
耐えていくつもりで、ずっと今まで我慢してきたつもりだった。しかし、家に帰ってから、まったく話そうともせず、顔を見ることを極端に嫌うような女性が、どうして性の対象になどなろうものか。
子供も元々、妻がいらないといい続けてきたものだ。何の未練があろうものか、サッパリしていいじゃないか。
康隆の心が訴える。
フラリと出かけた北海道、ここで何かの結論を出そうとでもいうのか、何かに焦っているような気がして仕方がない。
そんな気持ちで迎えるはずだった朝、だが昨夜の声で、まったく違った目覚めになってしまった。
――本当に別れようというのか――
隣から漏れてくる声で、一瞬でも妻の顔が思い浮かばなかった自分に康隆は、後悔の念よりも、却ってアッサリした気分になっていた。
迷いは断ち切られたような気がする。男というのは意外と未練がましいもので、女性のようにはアッサリしていないのかも知れない。ここに来るまでの康隆は、今までに何度も妻との楽しかった時期を思い出しては、少しでも元に戻る手立てはないものかと、思い悩んできた。あの時の気持ちさえ思い出すことができれば、やり直しだって利くはずだと……。
しかし、女性は違うらしい。同僚に一度相談したことがあったが、
「そんなのは男が考えるだけだよ。女っていうのは、アッサリしたものさ」
「というと?」
「ギリギリまで我慢して、そして最後に結論を出すのが女という生き物なんだ。結論が出てしまえばもう手遅れ、昔の楽しかったことなんて、関係ないのさ」
その友達は離婚経験がある。言葉はリアルで、重々しい。
「そうか……」
その時は漠然と聞いていたが、今ではハッキリ分かってきた。確かに妻の変化に気付いた時には、時すでに遅かったのだ。
ショッピングに行こうと誘ったことがあった。それまで仕事が忙しかったり、休みの日にはゆっくりしていたかったりで、なかなか一緒に出かけることなどなかったので、てっきり喜んでくれるだろうと思ったのだ。しかし、
「一人で行けばいいじゃない」
一瞬、ムッとした康隆だったが、それでも怒りを堪えて、
「いや、お前と出かけたいんだよ」
少し声が上ずっていたかも知れない。
「いやよ、束縛しようっていうの?」
信じられない言葉だった。別に束縛などではない。今までなかなかかまってあげられなかったことは、自分に非があるとしても、自分も疲れているのを、せっかく誘ってあげたという気持ちだったのである。
「束縛だって? 誰がそんなつもりなものか」
つい、声も大きくなるというものだ。こっちの気持ちをなんだと思っているのだ。こうなったら売り言葉に買い言葉、しばし険悪なムードになっていた。
康隆は、意地を張ってしばらく妻に話しかけなかった。妻の表情は完全に般若の形相だったのだ。しばらくすると、冷たい顔になっていて、とても話しかけられる雰囲気ではなくなっていた。
妻にしてもそうだった。どちらから折れるということもなく、しばらく時間が経った。――放っておけば、妻から折れてくるだろう――
それは希望的観測でしかなかったが、康隆にはそれしかなかった。自分から折れる気などまったくなく、妻から謝ってくる光景を頭に思い浮かべていた。
「あなた、この間はごめんなさい。私言いすぎたわ」
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次