短編集75(過去作品)
未練がないわけではない。しかし最初からいなかったんだと思おうと思えば、できないことはない。そんな気持ちでホテルを出ると、すでに日は高く、眩しかった。
先日までの寒さがウソのよう、まるで春の陽気だった。風も爽やかで、漂ってくる香りは春の香りである。
――昨日感じた香りのようだ――
美紀は香りだけを残して、康隆の前から去っていったのだ。
今でも康隆はその時の夢を見る。女の軟らかくきめ細かい肌、最初は冷たいが、次第に暖かくあっていくのを感じる。夢であっても感じるのだ。実に不思議である。
目が覚めると、康隆の下半身は敏感になっている。妻と一緒にいても最近ではそんなことはない。まるで若かりし頃の男を自分に感じる康隆であった。
札幌市内に戻った時には、思ったとおり日は暮れていた。ネオンサインの眩しい中、どこにも出かけることなく旅館に戻った康隆だったのは、疲れていたからだろう。一刻も早く眠りたかった。
どうしてホテルではなく旅館を選んだのかと言われれば、畳の部屋で寝てみたかったという気持ちと、下駄を鳴らして歩いてみたいという思いがあったからだ。旅館の近くには滝があるみたいで、下駄で歩いていってみたくなったのだ。
下駄で歩くことは好きだった。カランコロンという音を立てながら、浴衣を着込んで出歩いてみる。小さい頃に母親の後ろを着いて歩くことの好きだった康隆の記憶の中に、浴衣を来た母親の後姿に下駄の音が焼きついている。
だが、それもまずは眠ってからになりそうだ。さすがに襲ってくる睡魔に勝てず、浴衣に着替えた後は温泉に浸かることも億劫で、布団に入った。宿についてすぐに、
「少し休みたいんだ」
と告げたので、中居さんが布団を敷いてくれたようだった。
「では、ごゆっくりどうぞ」
部屋へ案内され、お茶を入れてくれると、ほとんど何も言わずに退室していった。気を遣ってくれたのだ。
とにかく眠りたい思いの元、布団に入るとぐっすり眠ってしまっていた。
気がつくと、隣から何やら聞こえてくる声、旅館なので、壁の向こうから声が聞こえてきても不思議ではないが、それよりも、時計を見て、すでに午前二時を回っているのを知るとビックリしてしまった。
――ここまでぐっすり眠っていたんだ――
きっと隣から声が聞こえてこなければ、朝まで眠っていたかも知れない。
その声とは、消え入りそうな声であった。これだけ熟睡していたのに、これくらいの声で起きるなど、信じられないほどの小さな声。しかし、一旦起きてしまって気になり始めると、今度は眠れなくなってしまう。なまじ大きな声よりも、気になるもので、悩ましい声とでもいうべきであろうか。
「くぅん、くぅん」
と鼻を鳴らしているようで、最初はそれが息遣いだとは思えなかった。息遣いだと感じると、女性の声だと分かってきて、途端に頭の中がなまめかしさで一杯になる。
――あの時の声だ――
すぐに気付いた康隆だったが、気がつけば聞き耳を立てている。どうやらつい今しがた始まったばかりのようだ。
なぜか壁一つ隔てた向こう側で繰り広げられている生々しい現状を、想像できる康隆だった。まるで見えているような気分なのだが、決して見えるわけはない。そのギャップが康隆にさらなる興奮を与えていた。
気がつけば壁の近くににじり寄り、壁に耳を当てていた。抑えようとしても漏れてくる声に興奮を隠せず、相手の男の息遣いも荒い、まるで目に見えるような光景を、目を瞑って想像している康隆は、今までにも同じような興奮を覚えたことがあるような気がしていた。こういう思いは忘れようとしても忘れられるものではないのだろう。
それにしても何とも間抜けな光景。暗い部屋で、浴衣の男が壁に耳を押し当てて、目を瞑って生唾を飲み込んでいる。そんな自分を想像するだけで、羞恥を感じてくる。
伝わってくる重たい空気、それは、自分も部屋で感じているものだった。湿気を帯びて感じる雰囲気は、康隆自身の息遣いを荒くさせ、最近感じたことのなかった興奮を呼び起こしていた。
――夢ではないだろうか――
と思った瞬間、このシチュエーションが初めてではないような気がしてきた。隣の部屋から聞こえてくる声に悩まされる。いや、興奮を覚えるというのは、思春期にも感じたことがあったような気がして仕方がない。
そういえば、康隆が信州で抱いた女性、あの時の興奮が思い出される。それまでに何度も妻を抱いているが、そんな興奮などありはしない。きっと、
――いつもそばにいる――
という安心感と、隅から隅まで知っているという気持ちから、不思議な興奮が生まれてこないのだろう。
――征服感――
これだけが、康隆の妻に対して感じる興奮だった。しかし、そんな興奮も今ではない。征服感など、いつの間にか失せていて、それがなければセックスもただの営みでしかなく、苦痛感すら感じてしまう。セックスに対する興奮や感動が失せてしまったことで、自分が家庭人間にはまり込み、このまま年老いていくのを覚悟しなければならないことを悟っているのだ。
――こんな時、そばに女性がいれば素敵なんだが――
と感じていたが、いないものは仕方がない。興奮にしばし身体を震わせながら、自分が少しずつ若返ってくるのを感じていた。
目を瞑って声を聞いていると、浮かんできた光景は、昼間見た海の風景だった。
晴れ上がっているわけでもなく、かすかに曇った空と海、綺麗に晴れ上がっていれば、どちらも真っ青に見えたのではないかと思える。しかし曇っている海はかなり荒れていて、東京で見る海などとは比較にならない。当然、海は東京のように薄汚れたものではないはずなのだが、光景だけを見ていると、鼠色の空に対し、鈍色に滲んだ海が波をうちつけているように見える。実に大自然の醍醐味を感じる。
――これも北海道の光景なのだろう――
青い色や赤い色、原色の艶やかさを求めてやってきたつもりでいたが、それだけではないことを大自然が教えてくれた。そこには、長い間の歴史の中で、毎日繰り広げられている光景があるのだ。波の強さも今に始まったことではない。ここの住民はあれが当然だと思って過ごしてきたのだ。ずっと昔からあの光景を見続けた人がいると思うと、不思議な感じもしてくる。
今も隣で繰り広げられる営みも、私が知らないだけで、二人の間では以前から当然のこととして行われていたはずである。それを盗み聞くことはスリルを康隆に与え、それまで忘れていたものを思い出させてくれた。まるでマジックにでも掛かったかのように、壁に吸い寄せられた耳を、そのまま離すことができなくなったのも、男としては当然のことなのだ。
しばらく聞いていると、女性の声がさらに甲高さを増してきた。いよいよ気持ちが昂ぶっていたのだろう。それまでは抑えようとしても漏れてくる声という感じで、控えめな感じが見受けられ、却ってその切ない声が興奮を煽っていたのだが、爆発寸前の声に遠慮などない。
「あぁ〜」
一際大きな女性の声とともに、
「ううっ」
男の呻きも聞こえる。その後は、糸を引くような女性の声がフェードアウトするかのように暗闇に消えていく。康隆の興奮も最高潮に達していた。
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次