短編集75(過去作品)
雨が降った後のコンクリートが乾くような石の匂いを感じる。その匂いはいじめられっこだった小学生時代によく感じていたように思う。
人の笑顔が億劫に感じられ、なるべく自分に話しかけられないようにという意識で、視線をなるべく合わさないようにしている。きっとまわりからは卑屈に見えるだろうと感じながら……。
それまであった自信が一気に覚めてくる。忘れているわけではなく覚えていることの一つ一つを自覚しようとするのだが、すべてが他人事のように思えて、実感がない。まるで足がつった時のように、痛みを堪えながら触られたくないという思いの元、まわりに気付かれないように額から玉のような汗を流して、必死に堪えている状況に似ている。
――まわりの人と関わりたくない――
というのが本心である。放っておけば自然に治ってくるということも分かっている。それも以前に感じたことだった。人間に病気に対しての自然な治癒力があるように、稲葉にも治癒力があることを自覚することで、定期的なものであることが分かっている。
鬱状態の時にこれといった治療法もない。元々から寂しがり屋の性格ではあるが、一人でいることも好きだった。一人でコツコツとするのが性に合っているのは、作曲作業で感じたことだ。
――自分の世界を作ること――
それには、一人が一番いいに決まっている。
社会人になって初めて訪れた鬱状態は、きっと自分だけではないだろう。いわゆる五月病と言われるもので、まわりを見ていれば何となく分かってくる。しかしそれは少し稲葉の鬱状態とは違うように思えてならない。きっとそれは過去に同じような思いがあったかなかったかの違いではないだろうか。
だが、皆一様に殻を閉ざしてしまっている。なるべく気配を消すようにしてまわりとのかかわりを排除することで、苦しみから逃れようとしているのが見える。それは稲葉も同じであったが、あまり見ていて気持ちのいいものではない。まわりの五月病の連中にも稲葉が同じように見えるのだろうか。鬱状態だからこそ、冷静に考えられることもある。まわりの目など今まで考えたことのなかった稲葉だったが、逆にまわりの目を気にするから鬱状態に入ってしまったのではないかとも思える。
いろいろ考えても結局は袋小路に入り込んで、考えれば考えるほど疲れるだけである。そんな時に浮かんでくるのが、公園のベンチに座っていた女性の横顔だった。必死に何かを見つめている顔、
――もう一度見てみたい――
と感じ始めると、どうしようもなくなってしまう。初恋だったのだろうか?
そうだとしても不思議はない。稲葉が女性に興味を持ち始めるのは、中学卒業の少し前だった。少し遅い方ではあるが、それまでにまったく女性に興味がなかったわけではない。
――彼女がほしい――
と感じ始めると、女性を見る目が変わり始めた。それまでは意識して見ようとしなかったところがあるが、気にし始めてからは相手がこちらの視線に気付くまでは、凝視し続けていたはず。相手がそれに気付いて気持ち悪くなったことも何度かあっただろう。街を歩いていて綺麗な女性から目が離せなくなることもしょっちゅうだった。
喫茶店に座ってその時のことを思い出しているが、ここで見かけた女性もその時のように、稲葉の視線も釘付けになっていた。同じように年上の女性として見ていた。彼女の顔に見覚えがあるように感じていたが、それが公園で見かけた女性だということに気付いたのは、その時の自分の心境を思い出してからである。基本的に似たような感じの女性を好きになる稲葉のタイプは、やはり最初に気になっていた公園で見かけた女性であろう。
単純といえば単純である。例えは悪いが、ツバメが生まれた時に最初に見たものを母親だと思う感覚に似ている。
それにしても似ている。過去の記憶を紐解けば紐解くほど、顔はおぼろげなのだが、ここで出会った女性に限りなく似ているように思えてならない。同じように自分にとっては年上の素敵な女性というイメージ。それだけは拭い去ることはできない。
子供の頃というと少しだけ年上であっても、かなり年上に見えてしまうのだ。きっと自分の成長が著しいために、短い時間が逆に長く感じられるからだと思う。その感覚にも間違いがないだろう。
指定席だった公園のベンチ、ブランコに乗っていても、すぐそばに彼女の肌を感じたものだ。すぐそばで感じていたと思うのは、匂いを感じたように思ったからだろう。
――柑橘系の匂い――
それはこの喫茶店で出会った女性の香りである。それを思い出すことでやっと、ベンチに座っていた女性の香りが柑橘系だったことを思い出した。
そこまで思い出してくると、今度は顔を思い出せそうなのだが、さすがにそこまではいかなかった。どうしても思い出すことのできない顔、いったいどんな顔だったのだろう。この喫茶店で出会った女性の顔すら、数日しか経っていないのに思い出せない。気にして見れば見るほど、忘れたくないと思えば思うほど、覚えられないものである。
それは今までにもあったことだが、あまりにも似ていることだけは意識の中にある。
思い出すほどに、まったく同じ人だと思えてならないのだが、それもあれだけに時間が経っているのにである。
稲葉の中で時間が経っていないように思える。
そうなのだ、きっと稲葉がここで女性と出会っていた瞬間だけ子供に戻っていたのかも知れない。子供に戻った目で見ているから、いつまで経っても年上の女性、同じ雰囲気を持った同じ人に見えるのだろう。
そういえばマスターも話していたではないか。
「二人が一緒だった時はなかったはずだ」
と……。
その瞬間だけ二人の世界の間だけ、稲葉は子供に戻っていたのかも知れない。その姿をマスターは見ていない。見えないのだろう。
公園のベンチが指定席だった女性、そして喫茶店でも指定席を持っている。そんな女性のいつもそばにいるのが稲葉なのだ。
稲葉にとって、忘れていたかも知れないが、記憶の奥から時々顔を出していたに違いない。
亜矢子と付き合っていた時に感じていた亜矢子の後ろに見え隠れしていた女性、ほとんど亜矢子と同体だったように思えるが、たまに表に出てきて、稲葉に意識させる。
意識していたからこそ、気がつけば別れていた。別れの原因をハッキリと覚えていないが、そこには見え隠れしていた女性の存在があったからに違いない。その女性を思い出してしまったが最後、稲葉の意識の中で次第に大きくなっていった。
大好きだったはずである。
――私は亜矢子を愛しているんだ――
何度心の中に言い聞かせたことだろう。しかし、言い聞かせるということは、それだけ意識の外に違う幻影を見ていたからだと言えなくもない。それが指定席のベンチに座った女性だということに、その時の稲葉は果たして気づいていたのだろうか?
どうして亜矢子と別れることになったのかを一生懸命に思い出してみる。どうしても引っかかるのが亜矢子の言った、
「あなたの曲には強引さがあるから」
という言葉である。今でも頭から離れない。
まだ稲葉が自分に自信があり、自分の自信に疑いのかけらもなかった頃のことである。
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次