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短編集75(過去作品)

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今の稲葉は、社会に出ることでいくつかの壁にぶち当たり、そのたびに鬱状態に陥っている。そのギャップが自分でも信じられず、自信のあった頃のことを思い出そうとするが、なかなか思い出せるものではない。
 亜矢子には、稲葉の性格が読めていたのかも知れない。今にして思えば「力強さ」ではなく「強引さ」なのだ。強引という言葉が悪いとは思えないが、それも自分に自信のある時、自信を喪失してしまえば強引さが災いするであろうことが想像できる。
 中身のない強引さに女性が惹かれるわけもない。
 それくらいの理屈は分かっているつもりだ。いつもいろいろ頭を巡らせている稲葉にとって中身のない自分を認めるのは辛いことだ。なるべく見たくないものには蓋をしたいのは、誰しも同じではないだろうか。
 だんだん思い出してきた。
「あなたは私の中に違う人を見ているのよ」
 と言われたことがあった。亜矢子に感じた懐かしさ、雰囲気は似ていないがベンチを指定席にしていた女性の眼差しに似ていたように思える。
「どういうことだい?」
「あなたの目を見ていれば分かるもの。その瞳に写っているのは私じゃないわ」
「そんなバカな」
「とにかくあなたが見ているのは私じゃないの。私はあなたが私を見てくれていると思っていたからずっと一緒にいたのに……」
 泣き出してしまった。どんな言葉をかけていいものやら分からない。こんな時に何を言っても言い訳になるからだ。言い訳などしたくない。惨めになるだけだ。
 だが、このまま別れたくなかった。何か言わなければならない。だが、言葉が出てくるわけもなかった。
 目の前で泣かれれば泣かれるほど、本当に自分が違う女性を見ていたように思えて仕方がない。
 亜矢子に感じていた匂いが、薄くなっていくのを感じた。きっと、
――我が心ここにあらず――
 だったのではなかろうか。まるで他人事、傍から見ている自分を想像してしまう。
 見られているような気がしていた。それが自分だということも分かっていたように思える。中身のない抜け殻のようになってしまった自分、いったいどこへいってしまっていたのだろう?
 魂となった自分が時間差を呼ぶのかも知れない……。
 喫茶店でそのことについて考えていると、マスターが思い出したように呟いた。
「そういえば、いつもここに座る女性の隣には、小学生くらいの男の子がいたような気がするな。でもおかしいんだよ、誰が連れてきたわけでもない。親がいなければ気になるはずなのに気にならないということは、幻だったんだろうか?」

                (  完  )





作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次