短編集75(過去作品)
綺麗過ぎるという言葉と一緒に優しさがあると聞かされた。普通優しいといわれれば嬉しくなるものだろうが、芸術家としての優しさは、決して喜んでばかりはいられないものである。
逃げに入っていると言われているように感じたのも無理のないことである。
堅実である考え方も冒険心を妨げる考え方を基本にしていて、一歩踏み込むことができない。したがって経験もないのに、表現しようとするから「綺麗過ぎる」作品になってしまう。それらの言葉は聞こえがいいが、すべて「逃げ」に繋がっているように思えてくるのは、きっと計算高いところがあるという自覚があるからだろう。いつも何かを考えていて、そこに計算がある。それが自分の中に蓄積されたストレスとして残ってしまうことは、実に皮肉なことだった。
鬱状態に陥り始めたのは、そんな「逃げ」を感じ始めたからかも知れない。自信過剰な時にはあまり深く考えず、それでもやることなすこと、うまく行くことが多い。それだけに、有頂天になってしまうのだが、その時期も長くは続かない。明るく見えていたものが次第に暗く見え始め、モノクロに感じ始めると自分の中で溜まっていたストレスを発散できないことに気付くのだ。
社会人になった私は、実に地味であった。社会人としての一年生で、まだ自分に自信のないのに、派手な恰好をすることを嫌ったのだ。服装などの外見で威厳を示したりするのは大嫌いだった。まるで自分の弱さを隠し、鎧でその弱さを覆い隠そうとするような行為に見えるからだ。
――自分を素直に見せること――
これが稲葉の考え方だった。小学生の頃の参観日を思い出す。答えも分からないのに、見栄だけで手を挙げなければならなかった時の屈辱、先生も答えが分かっている人しか指名しないワザとらしい演出にウンザリしたものだった。
稲葉は、コーヒーが好きである。作曲をしながら部屋で飲むのもいいのだが、馴染みの喫茶店へ出かけていって、コーヒーを飲みながら思い浮かんだ曲を書き留めておくこともある。
高校時代までは飲めなかったコーヒーだが、大学に入れば先輩が喫茶店に連れて行ってくれることで飲むようになった。何といってもあの苦味が嫌いだったのだが、今ではあの苦味は落ち着いた気分にさせてくれる。
何が違うかといえば、香りを味わうことを覚えたことが呑めるようになった一番の原因だろう。一杯しかなくて、カップに顔を近づけて香った時には、苦味しか感じない。しかし、コーヒー専門店のように全体から香ってくる香りには、芳醇なまろやかさを感じるのだ。まるで包み込まれるような香りは、一度病みつきになると、なかなか消えないものである。
大学時代に何をするのも億劫になった時、馴染みの喫茶店で本を読みながらコーヒーを飲んでいた時のことを思い出す。辛い思い出が億劫にさせるので、その時は辛かったのだろうが、後から思い返すとその時ほど落ち着いた気分になれたことはなかった。
あれは失恋した時だった。失恋すると最初はショックのためか、まるで他人事のように放心状態になる稲葉だった。バンドでステージに上がっている時の自分が見る影もなくうな垂れている姿を想像できない。いや、それだけ純情だとも言えるのではないだろうか。
失恋の痛手にコーヒー、中学時代、異性を気にしてはいたが、なかなか知り合う機会もなかった頃は、その組み合わせに憧れたものだ。ドラマを見ていてコーヒーを飲みながら考え込んでいる主人公の姿を自分に照らし合わせて見ていたことを今さらながらに思い出す。
――気がつけば、馴染みの喫茶店でコーヒーを飲んでいた――
記憶というのは、そんな時を思い出すためにあるのかも知れない。まるでドラマの主人公を見ている自分、目だけが身体から離れてしまったかのようである。
目の前に現われる女性。
ストレートなロングヘアーが印象的で、少し面長な感じから背の高さは窺い知ることができる。色白な顔に真っ赤な口紅が鮮やかで、服は赤と黒のチェックの服である。余計に白さが目立って見える。鼻の高さも印象的で、美人タイプの部類だろう。
「こちらの席は空いてますか?」
「ええ、どうぞ」
稲葉はいつもカウンターに座る。気分のいい時はマスターやバイトの女の子と話に花を咲かせたりしているが、精神的に参っている時でもカウンターに座る。しかもいつも奥の席が指定席になっていて、混んでいる時も不思議とそこは空いている。
その時、空いている席は他にもあった。だが、相手が女性だということで稲葉は快く席を指差した。失恋してすぐだったにもかかわらず女性が近くにいるだけで落ち着いた気分になれる自分が不思議だった。
しかし嫌な気はしない。微笑まれてこちらも自然に笑みが零れる。実に自然なことではないか。
その時に香ってきた香りは、柑橘系のものだった。コーヒーの香りとも、女性の香りとも違う柑橘系。ただ、一瞬だったのだ。だが柑橘系の香りを嗅ぐと、今でもその時のことを思い出してしまう。
それから二人の間に会話はなかった。席に座ってブルーマウンテンを注文したその女性は、雑誌を取り出し読んでいる。横顔を見ているだけで目の焦点は完全に雑誌に向いていて、まわりを気にする素振りなどまったくなかった。
声を掛けられるような状況ではない。失恋してすぐだというのに、なぜか彼女の横顔を見ているだけで、時間の経つのも忘れていた。何をするにも億劫だからこそ見つめ続けられたとも言えるのではないだろうか。
だが、その時のことはそれ以降の記憶がないのだ。しばらくして思い出したように、
「この間、僕の横でコーヒーを飲んでいた女性は、常連さん?」
とマスターに聞くと、
「この間?」
「ほら、チェックの服を着て、私の隣に座った少し色白の美人ですよ」
「はて? 記憶にないが」
と言って腕組みをしている。
「そんな感じの常連さんはいますけど、そういえば、稲葉さんと一緒になったことはないですね」
とハッキリ言ってのけた。
「えらく言い切りますね」
苦笑しながら言うと、
「そりゃそうですよ。いつも彼女は今稲葉さんが座っている席にしか座りませんからね。いわゆる時間差のある指定席なんですよ」
ちょっと不気味だが面白い話である。それにしてもマスターに覚えがないというのだから、まんざら信じられない話ではない。では稲葉が夢でも見ていたのだろうか?
彼女のことを思い出すたびに柑橘系の香りを感じている自分に気付く。柑橘系の香りを感じるたびに彼女の顔が浮かんでくる。柑橘系の香りなど珍しいものではなく、朝の通勤電車の中にいれば感じることができるものだ。
「柑橘系の香りが印象的だった……」
「ああ、確かに彼女は柑橘系の香りをいつも漂わせてますね。それが彼女のトレードマークのようなもので魅力なんですね」
「そうそう、その香りは笑顔になった時に一番感じるんですよ。まるでフェロモンのようですね」
「私もそれは感じてました。普通フェロモンというと甘美なものを思い浮かべますが、彼女に限って言えば、柑橘系なんですよ。いかにも、おねえさん系って感じですね」
確かに落ち着いていて、しかもスラリとした身長の高さはいかにもおねえさん系を思わせる。
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次