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短編集75(過去作品)

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――自分はこのままでいいのだろうか――
 趣味でやっている分にはよかった。しかし、人間には欲というものがある。それが存在する限り、いつまでもその溝は埋まらないだろうし、永遠のテーマとして残るのだ。
 作曲をするようになって、なかなか満足のいく曲が書ける時は、自分の中で、
――何をやってもうまくいく――
 そんな時期だと思うことが多い、実際にうまく立ち回れることも多く、
――まるで自分のために世の中があるのでは――
 と思えるほどだ。
 だが、逆に溝が深まっていると考えると、何もかもが悪い方へと向ってしまうような気がして、本当にロクなことがない。バイオリズムだと考えればそれだけなのだろうが、鬱状態への入り口は自分で見えるだけに、なかなか割り切れない部分がある。
 鬱状態への入り口――、それは稲葉にとってまわりが小さく見え始める時である。曇天の色が目の前の世界を支配し、すべてのものがモノクロに見えてくる。
 初めて鬱状態に陥るのを感じた時、それは初めて女性と付き合い始めてからすぐのことだった。それまでにも鬱状態に入ったことはあったが、前兆を感じたことはなかった。
 初めて付き合い始めた女性というのは、バンドのファンの娘である。
 あれは高校二年生の夏のことだった。
 バンドを見に来てくれた女性だったのだが、完全に稲葉の一目惚れだった。もちろんファンなのだから、稲葉のことが好きな女性であることは間違いないが、それを恋だと相手が思っていないと因幡は気付いていた。
 積極的な女性ではない。気持ちの中を整理しようとしているのだが、なかなかできないタイプの女性ではないかと思えてならない。何となくモジモジしていて、自分を表に出せない女性、そんな女性に稲葉は惹かれるのだ。
 告白は当然、稲葉からだった。女性は待ちわびていたような素振りを見せるが、本当に心の底から待ちわびていたようには見えない。だが、それでも思い切って告白できたことで、またしても自信を深めた稲葉だったのだ。
 まわりから見ても、アツアツのカップルに見えた。新鮮な雰囲気はお互いに初めて異性と付き合うからだろう。青春の一ページを演じている自分に酔い始めていたのだ。
 女性は亜矢子という。亜矢子は稲葉のどこを好きになったかという質問に、
「あなたの曲には強引さを感じるんです。私はそんな強引さに惹かれてしまうんですよ」
 と答えた。
 このセリフを聞いた稲葉は、その時初めて亜矢子にキスをした。半ば強引であったが、その雰囲気に酔っていた二人。少し離れて見てみたい光景である。
 強引さと好きだと言われるとは、正直思ってもみなかった。それだけにビックリではあったが、稲葉の中に自分で強引さがあったことは自覚していた。特に曲作りなど、強引さがなければできなかった曲もいっぱいあったことだろう。
 稲葉が亜矢子の身体を愛したのは、付き合い始めて三ヶ月してのことだった。それが早いのか遅いのか、稲葉にも亜矢子にも分からなかった。
 亜矢子は処女だった。分かっていたが、なかなか身体を開こうとしない女性は気持ちも同様で、無理に開かせようとしてもダメである。少しずつ、そして、時には強引に相手の身も心もほぐしていく。それが自分にはできると思っている。
 実際に亜矢子との一夜は最高の思い出である。あれから十年近く経っても新鮮な思い出として残っている。
 亜矢子も同じ気持ちだったようなのだが、記念になった一夜を越えても亜矢子の態度はそれまでと変わらなかった。亜矢子は潔い女性なのか、決して甘えを見せたりはしない。
 それから何度かベッドをともにしたが、それは普通の恋人のような気持ちである。快感の波が何度か二人を襲い、その時にお互いをむさぼっているのだが、それも本能の成せる業である。
――本能――
 この言葉を初めて意識したのがその頃からだった。
 しかし、バンドマンとして致命的なのは、優しさがあったからだ。優しさというよりも、どこかに「逃げ」があったのかも知れない。
 稲葉の作品は、綺麗過ぎるという評価がある。ドロドロしたところが見受けられず、綺麗な部分だけを表現しようとする。
「君は、地道な道を進んだ方がいいかも知れないね」
 何度かオーディションに応募し、実際にプロデゥーサーに会った時に言われた言葉だった。
 さすがに稲葉にはショックだった。そのショックが尾を引いて。結局亜矢子とは別れてしまった。
――プロデゥーサーになど会わなければよかった――
 と感じたが後の祭りである。今まで燻ぶってきた思い、そして心の中で次第に大きくなってきたストレス、そんなものがその言葉に集約されていた気がする。
 諦めをつけるまでに時間は掛かった。しかし、まだ学生時代だったことが稲葉には幸いした。これが社会に出てからの挫折であればもっときつかっただろう。いや、自分を見つめなおす時間が一番充実している時期だったと言った方が正解である。
 きっと中途半端なところがあるに違いない。芸術家肌に憧れる部分と、どうしても芸術家になりきれない部分、それは冒険できるかできないかということにも繋がっているだろう。堅実で石橋を叩いただけでは安心できないようなところのある稲葉にとって、音楽家としての成功は難しいに違いない。冷静になって考えればその通りで、趣味としてやりながら、その上で自分の自信を深めていく方が賢明だと思えてきたのだ。
 それでも発想には、芸術家的な斬新なところが随所に見られる。大学時代などは友達の中でも彼に意見を求めて来る人も少なくなかった。嬉しい限りである。大学というところは稲葉にとって自分の自信を確立させるためのものだったと思っている。
 自信過剰であったことも否めない。それは自分の好きなことを一生懸命にやってきたという自負があるからだ。さすがにプロへの道は諦めたとはいえ、青春時代の大方の時間を費やしてきたのだ。自信を持たずしてやりとおせるものでもない。
 さすがにアマチュアとしては、それなりの評価を受けていた。大会などにも何度か参加して、優秀賞数名くらいの中に入ったこともある。だが、やはり大賞に選ばれることはなかった。自分の中で、
――大賞の器ではないんだ――
 という気持ちが最初からあるからかも知れない。
 そういう気持ちを最初から持っていれば。いいところまで行ってもそれ以上は望めない。自分でも分かっているし、分かっている気持ちが身体から染み出しているのが選考委員にも分かるのだろう。
 しかも綺麗過ぎると言われてから、それを意識するあまり、どうしても綺麗過ぎるといわれたジャンルから脱却することができない。
「あなたの曲には強引さを感じる」
 と言っていた亜矢子の言葉を思い出した。脱却を試みるあまり、知らず知らずのうちに強引さが身についているに違いない。それでも人を引っ張っていくような強引さであればいいが、自分の中だけで表現しようとする強引さであるために、どうしても無理が出てくるようだ。それが壁となって稲葉の前に大きく立ちふさがっている。
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次