短編集75(過去作品)
半分千鳥足で部屋へと帰る。扉を開けて漏れてくる冷たい風は、相変わらずだが、真っ暗な部屋を見てもさすがに酔っているからだろうか、寂しい感じを受けなかった。感覚が麻痺しているのと、昨日までいた田舎の部屋の雰囲気がまだ頭の中にあるからだろう。
その時、初めて玄関の奥まったところで、
「ツーツー」
という電話の音が聞こえてきたのだ。最初はそれが留守電の音だとは分からなかった。今までに留守電にメッセージが入っていることなどなかったことだからである。
内容は何も入っていない。しかし掛かってきた時間を見る限りでは、二時間前に掛けられたもののようだ。帰宅したのが午後九時半だったので、七時半に掛けてきたものだろう。
その時はほとんど意識することもなく、無視していたのだが、それが翌日も、そしてまたその翌日も留守電が残っているとさすがに気になってきた。しかもそれがいつも帰宅する二時間前なのである。気持ち悪くなくて何なのだろう。
「美津子から?」
そう思って携帯電話に掛けてみるが、
「現在、電話に出ることができません」
ということで連絡がつかなかった。
気にはなるが連絡がつかないのではどうしようもない。きっと毎日疲れ果てて、早めに寝ているのだろうと思うことにしていたが、それは希望的観測でしかない。
「あ、そういえば、何か僕に聞きたいことがあるって言ってたな」
旅行に行く前に美津子が何か成田に聞きたいことがあったのを、今さらながらに思い出していた。
――一体何だったんだろう――
成田が美津子のことをどう思っているかということだろうか。もし、そうであれば三日間の間一緒にいることで聞かなくとも自分で理解できたのかも知れない。それならばいいのだがと思う成田だった。
ひょっとしたら、旅行から帰ってこの部屋へ招かれたいという願いだったのかも知れない。実際に何度かここへ来てみたいようなニュアンスがあったが、成田がこの部屋へ連れてきたくない理由が別にあったのだ。実は、成田は一度好きになった女性をこの部屋に連れてきて、欲望を抑えられなくなったことがある。この部屋に女性が来ると自分の性格が変わってしまうことを恐れていたのだ。普段は本当に紳士を演じている成田であったが、それは二重人格の片方の性格でしかない。
――自分で抑えられるような自信がないと、決してこの部屋に連れてきてはいけないのだ――
と常々感じている成田だった。
その女性は今他の男性と付き合っているらしい。相手は気にしていないようだが、成田の中ではトラウマとして残っていた。もちろん、相手がまるっきり忘れてしまっているわけはないと思うが、
――今が幸せならそれでいいとするか――
と楽天的に思っているのかも知れない。
そしてその翌日も帰ってくると二時間前の留守電が入っていた。
さすがに旅行から帰ってきて二日目ともなれば、生活感は元に戻っていた。美津子のことも気になっていたが、仕事を終えてからの自分の生活を思い出した以上、生活が一番である。
成田にとって美津子とはどういう女性なのだろう?
以前ここで自分を抑えることができなくなった女性、自分では恋人のように思っていた。別に身体を求めなくとも、それはそれで不満だとは思っていなかった。彼女もそれでよかったはずだ。それまでに彼女と身体の関係はあったが、それも成り行きのようなもので、お互いに気分が盛り上がったから身体を重ねただけだった。夫婦となれば別なのだろうが、彼氏彼女の付き合い程度であれば、定期的に身体を求めることをする必要もない。実際に欲求が溜まっているなどないと思っていたのだ。
彼女を自分の部屋へ招くこともしなかった。豹変してしまうなどまったく考えたことなどないのに、
「部屋が散らかっているから」
というだけの理由で入れようとしなかった。きっと自分の中で本性のようなものが分かっていたのかも知れないと、後から考えれば思えてならない。
しかし、そんな彼女が思いもかけず部屋にやってきた。少し酔っ払っていたかも知れない。
「ねえ、遊びに来ちゃった」
その言葉を聞いてから後のことは、成田自身覚えていないのだ。その言葉を聞いた時、自分の領分を侵されたという気分になったに違いない。もう一人の自分が顔を出す。酔っているにもかかわらず、かなりな抵抗を受けたことは覚えているが、抵抗が強ければ強いほど、成田の腕に力が入る。暴力の一つも振るったかも知れない。
だが、果たしてそれだけなのだろうか。彼女がこの部屋にやってきた理由は、何か成田に後ろめたさを持っていたので、シラフでは訪ねられないと感じたからのように思えてならない。
その根拠は後から知ったのであるが、成田と別れてすぐに新しい恋人ができた。その人は成田と違って何をするのにも積極的で、消極的で大人しい成田と別れたいと思っていたようだ。それを成田は敏感に察知したのだ。
――積極的になって別れるなんて皮肉だが、これも私らしいな――
と成田は思ったものだ。
しかし、トラウマだけが残った……。
そういえば、彼女が言ってたっけ。
――私が電話する時って、いつも留守電なの――
最近掛かっている留守電を見ると、その時の彼女を思い浮かべてしまう。
――そんなバカなことはないのに――
と……。
今日の留守電は少し雰囲気が違っていた。かすかに消えそうなか細い声が聞こえていたような気がする。明らかに付き合っていた彼女ではない。どちらかというと、美津子の声だ。
――美津子なんだ――
と思うと、何かを期待している自分に気付く。
――トラウマを解消できるかも――
何の根拠もなく、そう感じた。
海を見に行こうと思ったのは、付き合っていた彼女が海を好きだったからだが、一度も連れて行ってあげたことがないという思いもあった。
――連れて行ってあげたい――
一緒に行きたいではなく、連れていってあげたい……。それが成田の本性なのかも知れない。紳士を装っていても、何かの弾みで自分が優位だと思うことを、普段は無意識に感じているからだ。そのことを思い知った時、成田にもう一人の自分が現れる。
今日の留守電を思い出しながら成田は考えていた。
少し部屋が暗いことに気がついた。最初電気をつけた時には気付かなかったが、部屋の明るさに慣れてくるにつれ、部屋が次第に暗く感じるようになっていった。そのわりには影が鮮明で、いつもに比べ、部屋を狭く感じる。
自分の影が長くなっているようだ。壁に写った影を見て、あの時のもう一人の自分、彼女を襲っていた自分を思い出した。すべてが終わって、部屋でうな垂れている彼女を見つめる成田。後悔の念が襲ってくる。しかし、それは彼女に対するものではなく、もう一人の自分の出現を許してしまった自分に対してだ。いや、もう一人の自分だと思って逃げているのだろうか? その時の自分を思い出そうとするが、完全には思い出すことなどできない。
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次