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短編集75(過去作品)

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 美津子と一緒に行った海は、晩秋で風は完全に冷たかった。
「私、冬の海が好きなんです」
「僕は夏の海が苦手でね。すぐに気分が悪くなって、それがトラウマになっているみたいなんだ」
「そうなんですか。夏の海は私もあまり好きじゃありません。太陽がまぶしすぎるんですよ」
「肌にもよくないかも?」
「私はあまり太陽に身体を晒してはいけない身体らしいんです。病院で言われました」
「以前、病気でもしたのかい?」
「ええ、貧血気味だったので、少し病院通いをしていました。今ではすっかりいいんですけどね」
 そういえば血管が浮き出て見えそうなほど白い肌だというのが、美津子への第一印象だった。今でこそ慣れてきたのか、そこまでは感じないが、それでもか細い身体に、白い肌の雰囲気が滲み出ている。
 美津子は堤防の突端に椅子とキャンバスを据えて、そこでデッサンに取り掛かっていた。数日滞在できるように成田も有給休暇を取ってきたのだが、よく美津子がこんな寂しいところを知っていたものだと、最初は不思議に思っていた。
 土曜日、日曜日と今回美津子は仕事なので、月曜日から水曜日まで有休休暇をとった。水曜日は夜遅くに帰り着いてもいいように考えている。
「実は、ここは私が生まれたところに近いんです」
「じゃあ、ここにもよく遊びに来たのかい?」
「そうでもないわ。何度か父親の釣りに付き合わされて、私や母そして弟と、家族で来たのよ。お父さんはよく向こうの堤防の方で釣りをしていたわ。今でもそれをよく覚えているもの」
 美津子の指差す先には、ここよりも沖に長く突き出た堤防がある。こちらの堤防には小さな灯台が立っているが、向こうにはない。
「こっちは明るすぎて、魚が逃げるらしいのよ」
 美津子の説明で納得がいった。
「私はいつもここから父を見ていたし、ここで夕日が沈むのも何度か見たわ」
「沈む夕日は綺麗だったかい?」
「ええ、とっても、だから海を見ていて太陽が見えれば、私は沈む夕日を思い浮かべるようになったの。だからかしらね、一度あなたに見てもらった時の絵は、夕日が沈んでいるという気持ちを込めて描いたものだったのね」
「僕もそうなんだ。あまり覚えはないんだけど、こういう光景を見ると必ず夕日が沈んでいる光景しか思い浮かばないんだ。でも、君の絵を見て、何の躊躇いもなく沈む夕日だと思ったんだよ」
「きっと私たち同じ感性を持っているのかも知れないわね」
 そういって私を見つめる美津子の目は輝いていた。
「それだと嬉しいね。でも感性って何なんだろう? 僕は今まで感性などという言葉を感じたことなかったからね」
「感性って、皆持っていると思うの。もちろんそれを自覚する人としない人で開きはあると思うんだけど、少なくとも感性を持っていると自覚している人は相手の感性を見ようとする習性があるようね。だから私には分かるの。きっとあなたは私と同じ感性を持っているわ」
 そう言われると嬉しかった。感性というより何よりも、美津子と同じものを持っているということが嬉しいのだ。
――いつもだったら、仕事しているんだな――
 と考えると何だか不思議な気持ちだった。仕事が嫌だというわけではない。それなりに充実もしている。だが、女性と二人で出かける旅は成田の気持ちの中で、現実逃避という言葉の裏返しのように思えるのだ。休みが終わり実際に仕事に復帰した時、
――大丈夫だろうか?
 と思ってしまうのだ。むしろそれは水曜日の夜に襲ってくるだろう。普段の日曜日の夜の心境だ。しかもその間には日にちというよりも、楽しい日々が頭から離れず、それがカルチャーショックとなって襲ってくる。
 楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうものである。実際に最初の二日はあっという間に過ぎるかも知れない。しかし最後の日は、帰りたくないという思いも手伝ってか、ダラダラとした気分に陥り、きっと最初の二日間とはまったく違った気持ちになることだろう。
 しかも、実際に一緒にいる時よりも、後から考えた時の方が時間の長さはかなり長く感じるはずである。それだけに社会復帰の木曜日というのは、普段の月曜日よりもきついことは容易に想像できる。
 月曜日はゆっくりと出かけてきた。朝の待ち合わせは八時すぎくらいだったが、途中喫茶店で電車に乗る前に朝食をともにした。
「こんな落ち着いた月曜日の朝なんて、久しぶりだよ」
「私もです。いつも会社で忙しい朝を過ごしていますからね」
「忙しいというより、緊張ですね。空気が張り詰めてるよね」
「そうなんですよ。目が血走っているとまでは行きませんが、何か普段の皆と違う気がして、私もそんな目をしているのかと怖くなります」
 少し不安な顔になった美津子だった。
「それは僕も同じだよ。月曜日って、皆違う人間になってるんだよ、午前と午後で、まったく人格が違うんだね」
「月曜日って嫌なんですけど、月曜日の午前がなければ、一週間が始まらないって気持ちにもなるわ」
 コーヒーの香りに魔力のようなものがあることに、その日初めて気付いたような気がする成田だった。会社でもコーヒーを飲む。サイフォンを使ったコーヒーを女性社員が作ってくれているのでそれを飲むのだが、かなり味が違っている。香りは同じようにしているが、明らかに喫茶店の方が濃い香りを感じる。実際に飲んでみても断然喫茶店のコーヒーの味の方が濃厚なのがハッキリと分かる。
 これが喫茶店の醍醐味というものだろう。コーヒーを飲むのもしかりだが、香りを楽しむことが普段感じることのできない至福の時間を与えてくれているのだ。香りで感覚が麻痺するなど今まで感じたことがなかった。
 朝から客は結構いる。もうすでに通勤時間を過ぎているので、サラリーマンの朝食には少し遅いかも知れないが、入れ替わりに大学生や主婦がいるようだ。
 しかし、主婦や大学生というとうるさい雰囲気があるが、ここでは一切そんな感じはない。話し声も疎らで、皆本を読んだり雑誌を読んだりしている。これこそ朝の至福の時間、皆余裕を持って過ごしているのだ。
「喫茶店がこんなに贅沢な気持ちになれるなんて知らなかったわ」
「そうだろう。僕もそうなんだ」
 気持ちの余裕は顔にも現われていて、普段は夜に会うことの多い二人だったので、こんな爽やかな顔は、きっと朝ならではなのだろう。
 喫茶店ですっかり気持ちをほぐすと、昼近くになっていた。電車で目的地まで向かうと
夕方近くになるだろう。それくらいの余裕をもっていた方が、きっといい作品ができるという美津子の提案だった。
 それには成田も賛成だった。月曜日の喧騒をなるべく避けるようにして過ごしたい。時間はあるのだから、それなりに余裕を持つことがこの旅行の目的でもあった。
 目的地に着いてから、すぐに海岸に下りた美津子は、懐かしそうに海を見つめている。
 海に写っている夕日がそろそろ海の向こうに傾いている。目の当たりにしていると、本当に自分の瞳がオレンジ色に染まってくるのではないかと思えるほどの明るさである。
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次