短編集75(過去作品)
それは動かない絵であっても同じに思えた。角度なのか、それとも明るさを表現する色使いなのか、よくは分からない。
「絵を描いてる時に、自分はうそつきなんだって思う時があるの」
「どういうことだい?」
「それはね、細部を見る時の目と、全体を見渡す時の目の違いのようなもので、バランス感覚のようなものだと思うんですよ」
コーヒーカップを口に持っていき、最初は口の中で弄ぶようにしていたが、「ゴクン」という音を立てて、喉を鳴らして飲み込んだ。
「それはどのような意味で?」
何となく分かりそうな気がする成田であるが、ハッキリと言葉にして聞いてみたかった。きっと同じ考えのような気がするからだ。
「目の前に見えるとおりに絵を描いていくと、最初は全体を見て描いているんですけど、そのうちに細部を描きたくなるんですよね。それは私だけではないと思います」
「うんうん」
「それで、そこまで来ると、細部を忠実に描きたくなるのも分かってくるんですよ。するとまわりが見えなくなる時が、一瞬出てくるみたいなんです」
その気持ちは分かるような気がしてきた。小学生の頃、成田が絵を描いていて、思うように描けなかった原因もそのあたりにあるような気がしているからだ。
絵画や芸術の話をしている時の美津子の顔は、実に楽しそうである。会話が白熱してくると、ともすれば怒っているように見えるのが少し難点であるが、全体的に楽しそうに話す美津子は、きっと時間の感覚が麻痺していることだろう。
「確かに細部を細かく見ると、まわりが見えてきませんね。そういう時はどうなんですか?」
「デッサンをしている時もそうなんですが、いかに立体感を出そうかというのが悩みのタネで、そのためにデッサンでも、鉛筆描きで色を濃くしてみたりするんですよ。所詮私も素人ですから専門的なことは分かりません。それだけにいろいろ試してみて、自分の納得のいく方法というのが一番しっくりくるものだと思うんですよ、だから、専門家の人がやっていることを真似しようとしてもなかなかできないです。きっと天邪鬼なのかも知れませんね」
そう言ってはにかんで見せた。
「専門家がやっている方法って具体的には?」
「例えば、遠くの山や木を描く時に、ペンや鉛筆を立てて、片目を閉じながら距離を測っているでしょう? あれって私にはできないんですよ。距離を測るのにどうしているかって言われれば、それこそ、勘ですって答えるしかないですね」
「そうなんですか」
ここまで来れば成田も相槌を打つしかなかった。美津子も自分が絵を描いている時の気持ちになって思い出しながら話しているに違いない。成田もそのつもりで聞いている。
「それでね、絵描きって皆うそつきじゃないかって気がしてくるのよ」
コーヒーカップにもう一度口をつけながら、美津子は意外なことを話した。きっと白熱していて喉も渇くのだろう。
「それは?」
「デッサンの時でもそうなんだけど、実際に色を入れていく時に感じるのは、どこから入れていくかということなんですよね。入れる場所によって、実際に見えているものが違ったものに見えてくることだってある。しかもだんだんとできあがってくるにつれて、今度は自分が想像したのと違う色に思えてくることがあるんですよ。それをいろいろやっているうちに忠実に見たままを描いていんですね、実際の色を感じながらね。それが細部を見ながらの作業になる。でも、実際にある程度できあがってみると、今度は思ったより暗めの色になってくるのが分かります。きっと細部の色を強調しすぎるからだと思うんだけど、そうなると、今度は全体に合わせるための作業に入るんですよね。だから、どこまでいっても細部を見るのと全体を見渡す接点は見つからない。どちらに合わせてもうそつきのような気がするんですよ」
実に面白い考え方である。芸術や絵画にあまり造詣を深めたことのない成田でも、その時の美津子の考え方がハッキリと分かったような気がした。あくまでその時の心境だけなのだが、それだけ彼女の訴えかける気持ちが強かったに違いない。
「でも、君は自分がうそつきだと思うかい?」
「今は思わないわ。でもうそつきになってもいいと思っているの。絵画でうそつきになるということはそれだけ絵が上手になるということだからね」
「そうなんだね。僕には少し理解できないかな?」
成田は笑いながら答えていたが、それを美津子はどう感じたであろう。
「芸術家は芸術家の心を知る」
というが、逆に芸術家肌でない成田に理解されると、却って気持ちが薄っぺらいもののようになる気がする美津子だった。
「でもね、本当に上達してくると壁にぶち当たるような気がするの。木に年輪があるように、ところどころに節目があって、そこを乗り越えることで大きくなっていく……。芸術の中で“うそつき”になることが、その一つの節目じゃないのかしらね」
何にしても「極める」ということは難しいことだ。
「芸術に王道なし」
といわれるではないか。それだけいろいろな道があったとしても、行き着く先を示す指標は一つなのかも知れない。美津子は今それを見つけようとしているのだろう。
そういえば、成田は一度も美津子を自分の部屋に連れてきたことはない。美津子も一人暮らしをしているのだが、成田を自分の部屋へ連れてきたことがない。付き合いはじめて半年が経とうとするのに、どちらからとも、自分の部屋へ誘うような話をしたことがなかった。意識していないと言えばしていないが、一旦気になると、
――なぜだろう?
と感じる成田だった。その気持ちは美津子に感じるものではなく、自分に感じるものだ。以前であれば、
――恋人ができたらこの部屋に招待したいな――
と感じていたことも事実で、忘れていたなど我ながら不思議である。
成田にはこれといった趣味はない。部屋にいて溜まっているビデオを見るくらいだったが、さすがに芸術的なことには疎いことは分かっているので、美津子の話を聞いても、どこまで理解できているか自分でも分からなかった。
一度海を描きたいということで一緒に海の近くの温泉に行ったことがあった。まさしく美津子が一度、自分の絵だといって見せてくれたあの時の絵、そのままの風景が目の前に広がっているようなそんなところだった。
「私、海を見ていると落ち着くんです」
という美津子に対し、
「僕は吸い込まれそうで嫌だけどな」
と返す成田。成田自身、子供の頃から潮風が苦手だった。小学生の頃湿気を帯びた潮風に当たっていると、身体にまとわりついてくる湿気は肌から必要以上に汗を噴出させ、そのために体温が身体に籠もってしまいそうで一気に疲れを感じてくる。それも、その場所にいる時というよりも、海から帰りついてから気分が悪くなり、翌日には必ず発熱していたものだ。それでも、親が連れていってくれるので我慢していっていたのは、最初潮風に原因があるとは思わなかったからである。おかしいと思いながらも原因が分からず、気がついた時には、海が嫌いになっていた。
しかし、それは夏だけだった。夏以外の時期に海にいっても風を引くということはない。やはり湿気が身体に熱をこもらせるからに違いない。
作品名:短編集75(過去作品) 作家名:森本晃次