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意識が時間を左右する

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 彼の熱く語る言葉には重みが感じられた。画家になろうとしてパリに渡り、そこで初志貫徹を目指した。そこからなぜカメラマンになったのかその先の話があるのだろうが、ここまでの話は矢吹を感動させるに十分なものだった。
――やっぱり、この人の話は面白い――
 と矢吹は感じた。
 南郷の話はもちろんそれで終わるわけもなく、話には続きがあるのだが、その日はそこまででお開きになった。南郷が敢えて話を遮ったのであって、そこに彼がどのような演出を試みようとしたのか矢吹には分からなかったが、
――彼なら何か考えがあってのことだ――
 と思わせるだけの根拠は十分にあったのだ。
 南郷と初めて組んだ企画は、
「秋の温泉湯けむりツアー」
 だった。
 まるで二時間サスペンスのような名前のツアーだが、主婦層が多いことからこいいうネーミングになったという。専業主婦がいかにも好きそうな名前であった。
 編集長の意向としては、
「初めての取材なので、すべてが自由というよりも、決まった企画の中での取材の方が気楽にできるだろう」
 というものだった。
 最初は少し物足りない気がしたが、編集長のいうことももっともなので、ここは謙虚な気持ちになって取材を敢行することにした。
 さすがに想像していたが、ほとんどと言っていいほど主婦の集まりだった。中には旦那さんも一緒にいる人もいたが、旦那さんはあまり乗り気ではないようだ。あくまでも奥さんの体裁のために呼び出されたという感が強く、旦那さんからすれば有難迷惑だったに違いない。
 温泉というと、昔家族で行った経験があった。まだ小さい頃だったので、少々のことでは疲れを感じることはなかった。それよりも好奇心が旺盛で、まわりの大人が疲れているのを見て、
――どうしてあんなにぐったりしているのかしら?
 と思っていた。
 旅館に到着すると嬉しくて、管内散策をしたいという思いから、部屋に入ってすぐに荷物を置くやいなや、部屋の外に出かけたものだ。
 ぐったりしている親は、そんな子供がどこに行ったのかなどすぐに気付くこともなかった。
「ねえ、次郎はどこに行ったの?
 と、少ししてからやっと母親が気付いて、
「さあ、知らないよ。旅館の中を探検でもしてるんじゃないか?」
 と気のない返事をしたことだろう。
「何言ってるのよ。あなたがしっかりしないから、あの子がフラフラしてるんじゃない。しっかりしなさいよ」
 と言ったことだろう。
 普段はあまり会話のない夫婦だったが、子供のことでよくケンカになっていたのは分かっていた。分かったと言ってももっと大人になってからのことなので、今の会話も大人になって想像しているだけであるが、そう大差のないものだったと矢吹は思っている。
 父親は、
「しょうがないな」
 と言いながらも、別に動くわけでもなく、横になったままの体勢で、母親に背を向けていた。
 そんな会話が行われているなどまったく知らない矢吹少年は、しばらくすると帰ってきて部屋に入ると、何となく嫌な雰囲気になっていることに気付いた。親二人はまったく会話をしておらず、完全に別々のことをしている。父親は縁側の安楽椅子に腰かけて表を見ていて、母親はテレビの前に座って、テレビ画面をじっと見ていた。
 似たような光景を家でも見たことがあった。こんな時は険悪なムードになっていることは分かっていて、その理由はその時々で違っていたが、この日ばかりはなぜか理由が自分にあるということを予感することができた。
 矢吹は声を掛けることもできず、かといって戻ってきた状態で、そのまままた表に出ることもできなかった。半分足が竦んでいたと言ってもいいかも知れない。
「次郎。温泉にでも入ってくるか」
 と言って、父親が誘った。
 母親はその様子をまったく知らんぷりしたままテレビ画面から顔を逸らすことはまったくなく、二人が部屋から出ていくまで微動だにしなかった。
 温泉に入っても父親はまったく声を掛けてくることもなく、何かを考えている様子だったが、結局まったく会話のないまま部屋に戻った。
 部屋に戻ると今度は母親が、
「じゃあ、今度は私」
 と言って、やっと重い腰を上げ、露天風呂に向かった。
 自分たちが風呂に行っている時間よりも数倍母親が帰ってくるまでに時間が掛かったような気がする。確かに女性の風呂は長いと言われるが、こんなに時間が違うとは思ってもみなかった。実際に時計を見たわけではないので、本当の時間は想像でしかないが。実際の時間よりも想像の時間の方がかなり長かったような気がして仕方がない。
 その間、やはり父親とは会話がなかった。
――こんなに息苦しいなんて――
 と思い、その時の温泉旅行は最悪だった。
 両親の怒りが何だったのか、どうしてそれに気付いたのか、今となっては思い出すことはできないが、大人になると、子供の頃のことを忘れるのか、それとも自分のことだけで精一杯になるのか、子供には理不尽以外の何物でもなかった。
 そもそも温泉旅行を計画したのは両親のはずなのに、子供としては親に連れてこられたというだけだった。親とすれば、
「子供のため。家族のため」
 という意識があったのかも知れないが、それぞれに自己満足したかっただけで、押し付けだったのかも知れない。
 それから矢吹は、
「親の押し付け」
 という意識が強く、親からどこかに行こうと誘われても断るようになった。
 親も誘うことはなくなり、夫婦でどこかに行くということもなくなった。
 両親は矢吹が高校の時に正式に離婚したが、アルバイトをしたりして、大学生活まで無事に終了することができた。
 教師を目指したのは、両親の離婚も一つのトリガーだったのかも知れない。自分の中では、
――そんなことはない――
 という思いもあったが、まったくなかったとは言えない自分もいた。
 カメラマンになって温泉に来ると子供の頃のことを思い出してしまう。苦い思い出なのだが、本当に苦いというよりも、ほろ苦いと言った方がいいかも知れない。何しろ小さな頃のことではあるし、あれから何年経ったというのだろう。トラウマとしては残っているが、立場がまったく違うので、逆にあの時の両親に近いくらいの年齢になっていたことも影響しているのかも知れない。
 だが、両親の気持ちは分からない。自分も大人になったのだから、少しは分かるのではないかと思ったが、分かる気がしないのだ。分かりたいと思っていないからなのかも知れないし、まだ独身だから分からないのかも知れない。
 ほろ苦いというのは、きっとあの頃の両親の気持ちも分からず、あの頃の自分の気持ちの記憶も遠ざかってしまっているからではないだろうか。もっとも子供の頃の記憶はここにきてやっと思い出したようなものなので、自分の記憶の中に封印していたのかも知れないと思った。
 温泉取材をそつなくこなした矢吹は、その出版社から結構仕事を貰うようになった。フリーと言っても、他からの仕事はあまりなく、その出版社の専属のようになっていた。社員に比べれば安定していないが、仕事の量もまあまああったので、給料面ではそれほど不満はなかった。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次