意識が時間を左右する
とは言っても、大学での成績はパッとするものではなく、すべてにおいて平均的で、可もなく不可もなく、いわゆる平凡なものだった。教員免許も無難に取得することができて、赴任フル学校も簡単に決まり、順風満帆に進んでいるように見えた。
某高校に赴任した矢吹は、生徒からそれなりに人気はあるが、別に慕われていたというほどの先生でもなかった。もっとも今教師が慕われるような時代なのかどうか疑問ではあるが、矢吹はこれまでの自分の人生に満足していた。
「平凡な生活を続けることが難しい」
という思いを持っていたからで、余計なことをせずに長いものに巻かれるのも仕方のないことだと思っていた。
矢引が教員になって五年目くらいだっただろうか。担任のクラスも任されるようになった矢吹だったが、不幸は突然に襲ってくるものだということを、この時に嫌というほど思い知らされたことだろう。
あれは夏休みのことだった。自分の生徒数名で海水浴に出かけた時のことである。海水浴場の中で泳いでいる分にはよかったのだが、彼らは少し冒険心が旺盛で、泳いではいけない区域で泳いでいたという。そのグループは男子だけの四人グループで、いつも学校ではつるんでいるのが一目瞭然な四人組だった。べtr巣に不良というわけではないが、優等生でもない。こういう生徒がある意味、一番危ないのかも知れない。
何もなければ事なきを得るのだろうが、そんな時に限って事故というのは起きるもので、一人が行方不明になってしまった。別に波が荒かったりしたわけではないので、
「どこか向こうの方で休憩でもしているんじゃないか?」
という彼の指さした先には、砂浜が途切れたところに岩場があり、その向こうは死角になっていた。
だが、一時間近く経っても、いなくなった一人が戻ってくることはなかった。そのうちに一人が、
「これってヤバくないか?」
と言い出した。
「そうだな。そろそろ警察に届けた方がいいんじゃないか?」
と急に皆、ビクビクし始めた。
きっと皆心の中では危ないのではないかと思っていたのかも知れない。だが最初に言い出すのが怖くて、誰かに言ってもらいたかったのではないだろうか。
ほどなくして一人が警官を連れてきた。警官は状況を見るとすぐに無線でどこかに連絡している、きっと本部への連絡と、手配のお願いだったのだろう。電話が終わると、
「手配はしたから」
と言って、彼らにその時の状況を聞いた。
泳いではいけないところであることは理解したうえで、こんなに天気のいい状況で、人がいなくなるなど想像もしていなかったという。海水浴場は常に監視されている。海の事故を防ぐのも当たり前のことだが、人が集まれば犯罪も起こりかねないということでの監視でもあった。監視するにも人の目が主なのでその範囲はおのずと知れている。だから監視できないところは基本、泳いではいけない禁泳区になっているのだ。
高校生にもなるとそれくらいのことは分かっているだろう。それでも泳いでみたかったのは、旺盛な好奇心と、誰にも監視されたくないという自由な気持ちの表れからの、大人に対しての抗議のような気持ちだったのかも知れない。いわゆる
「大人に対しての自分だちの存在をアピール」
をしたかったのかも知れない。
行方不明になった生徒はその後、溺れているのを救助されたということだったが、生徒たちは問題となり、停学処分を課せられた。皆、甘んじてその処分を受け入れたが、矢吹はその処分を重すぎるとして学校側に抗議した。
「矢吹先生、これはルール違反を犯して、まわりの大人に迷惑をかけたということで、重大な責任が彼らにはあるということですよ」
と校長から言われた。
「それはそうかも知れませんが、少し処分が重すぎると思います。彼らはクラスでも普段は大人しく、問題を起こすような生徒ではないんですよ」
というと、
「そういう生徒だから怖いんです。夏休みという解放された時間で、軽い気持ちで羽目を外したつもりなんでしょうが、それが大きな問題を引き起こした。つまりは状況判断が甘ければどういうことになるか、思い知らせてやることも教育者の務めだとは思わないんですか?」
矢吹は、
――もっともなこと――
とは思ったが、気持ちとしては釈然としない。
「これじゃあ、まるで見せしめのようなものじゃないですか」
というと、
「ええ、そうです。一種の見せしめです。これは時として必要なものだとは思いませんか? 彼らは未成年で高校生ではありますが、大人と同じように危険を犯すことはできるんです」
この話も矢吹には理解できた。
理解はできたが、反論しないわけにはいかない。だが、理論が分かるだけに反論するにも自分の意志をぶつけることには自分の中で矛盾ができてしまう気がした。
――このままでいけば平行線を描いてしまう――
と感じ、それ以上の反論はできず、引き下がるしかなかった。
これは矢吹にとって屈辱的なことだった。
先生になって、いや先生を志してから今まで、まったく波風が立つことのないほどの順風満帆だったのが、急に大きな壁にぶつかってしまった。今までが順風満帆だっただけに、こんな時にどうしていいのかというノウハウを、彼はまったく持っていなかったのだ。
起こってしまったことはどうしようもなく、彼らが停学処分を受けることもしょうがないことだとは頭の中で思っている。しかし、どこかに一抹の不安があり、その不安は不幸にも的中することになった。
停学になった生徒四人は、学校に出てきても、誰とも会話をすることもなく、完全に孤立してしまった。四人のグループが孤立したわけではなく、四人の中でもそれぞれにぎこちなくなってしまって、一人一人が完全に孤立してしまった。
事故が起こったということに関しては時間が経てば誰もが忘れてしまっているようだった。言葉にするのがタブーとなったこともあってか、事故が起こってからしばらくは誰も事故のことを口にすることはなく、そのせいでクラスの雰囲気は凍り付いてしまったかのような最悪の雰囲気を醸し出すようになっていた。誰も余計なことを口にすることもなく、休み時間など他愛もない話をしている連中は相変わらずに見えたが、明らかに雰囲気は違っていた。
それでも時間が経てば皆忘れてしまったかのように、いつの間にか雰囲気は前のように自然感じに戻っていた。自分が当事者ではなく、教壇の上から他人事のように見たので、その状況がよく分かったのだろう。
――他人事――
そう、この思いが矢吹にジレンマを与えた。
あれだけ校長に意見を言った自分が、いつの間にか他人事として教壇の上から全体を見渡すようになっていたのだ。屈辱を感じたあの時からそんなに時間も経っていないのにである。
――きっと屈辱を感じたあの時から、自分の中で何かが弾けたのかも知れないな――
と感じた。
ジレンマは次第に八つ当たりに変わっていった。
――あの連中が余計な事件を起こさなければ、俺はこんな気持ちになることなんかなかったんだ――
そんな連中を庇うかのように、校長に意見した自分が今では忌々しく思えてきた。
――あの時の俺は本当に俺だったんだろうか?
と思ったからだ。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次