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意識が時間を左右する

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 実際にそうなった時、朝目覚めるのは嫌だった。目が覚めるにしたがって見えてくる世界が明らかにいつもと違う。通学の途中でも何かが違っているのを感じた。まず感じたのは信号機のシグナルだった。赤や青がやたらと気だるく感じられた。それは学校が終わって塾にいく途中で感じた時がピークだった。家を出るのがちょうど夕方という時間帯で、西日が今にもマンションの谷間に消えて行こうとする時間帯。冬であっても妙に湿気が感じられ、一番息苦しさが自分を襲う時間帯だった。後で聞けば夕凪という時間帯らしいが、この夕凪の時間を叙実に感じさせるのが鬱状態の時だと結構最初の頃から感じていたようい思う。
 しかし今度は塾が終わって家への帰途についた時である。完全に売るのとばりは降りていて、来る時に感じた湿気は、夏であってもほとんど感じることはない。夕飯もまだの状態で一日の疲れが一気に襲ってきているのは分かっていたが、来る時に感じた信号機の気だるさを感じることはなく、くっきりと見えていた。夕方に感じる微妙な明るさの日の光がまったくないからだとして簡単に片づけるわけにはいかないと思った。
 最初はその違いをよく分からなかったが、そのうちにその違いを感じるようになった。そこにはれっきとした違いがあり、分かってしまうと、
「なるほど」
 と感じさせるものだった。
 まだ日の光を感じる時間帯には、信号の赤い色は真っ赤ではない。青の方がれっきとして感じられるもので、日の光を残した時間帯であれば、青と呼ばれる信号機は、緑色なのである。
 しかし、日の光の影響をまったく受けることのない夜という時間帯では、赤は真っ赤であり、青は真っ青なのだ。その違いは自分の体調に左右されることはなく、明らかによると昼の時間帯で、見えている色に違いがあるのだ。
 これは鬱状態特有の現象であった。確かに平常時であっても躁状態の時であっても、その兆候はある。だが、改めてそのことを感じることはなかった。信号機を見て、シグナルの色を意識するのは決まって鬱状態の時であり、そしてその時に、
「他の時と違って」
 と感じることで、余計に鬱状態での色の見え方が他の時との違いを感じさせる。
 一種の「差別化」と言えるものであって、この差別化が自分の中での躁鬱状態のれっきとした違いとして意識させるものとなっていった。
 さらに鬱状態から躁状態、躁状態から鬱状態への移行の際には、正常時は存在しない。いきなり躁状態から鬱状態へ、そして鬱状態から躁状態になるのだ。つまり正常時への移行は、躁鬱状態からの脱却であり、脱却する時にも、その予感めいたものは存在するのだった。
 躁状態から鬱状態へ移行する時は、意識としては漠然としていて、それを口で説明しろと言われても難しかった。しかし逆に鬱状態から躁状態への入り口は言葉で説明しろと言われるとできるような気がした。そのキーワードは「トンネル」であった。
 矢吹は中学時代にはバス通学をしていた。その途中にトンネルというには短いが、高架というには長いような中途半端な長さのトンネルが存在した。遂道というのが一番不和しいのだろう。実際にトンネルの端には、
「〇〇遂道」
 というのが、彫りこんであった。
 そこは途中に黄色に光る蛍光灯が存在していて、トンネルとしては短いので入ってすぐに黄色を感じはするが、すぐに日の光が差し込んできて黄色を意識することができるのは一瞬だけだった。
 実際に鬱状態に入り込むまではトンネルに黄色い蛍光灯があることすら意識することはなかった。だが、鬱状態として意識してしまったことで、トンネルに入ってから出るまでがそれまでの数倍の時間に感じられるようになった。
 普通であれば考えられないような感覚だが、それを鬱状態というのだと思えば、理屈で説明のできないことも、自分で納得できるような気になるから不思議だった。
「鬱状態というのは、そんな時期なのかも知れない」
 とも感じたが、その思いは歳を取った今でも変わっていない。
 黄色く感じる時間が次第に長くなっていく。それにつれて、
「鬱状態から抜けることはなかなかできないんだ」
 と矢吹は感じたが、その感覚にいつも間違いはなかった。
 だが、次第にトンネルの黄色い時間が短く感じられるようになった。最初の頃は、
「マンネリ化してきたからなのかも知れない」
 と思ったが、どうも違う。
 黄色く感じる時間よりも、黄色く感じた部分に次第に外の明かりが差し込んできて、大手に出るまでの時間が、黄色く感じされる部分が短くなるのに反比例して長く感じられるようになると、その時、
「やっと鬱状態から逃れられる」
 と思うのだ。
 だからと言って、嬉しいという感覚はない。これから襲ってくる躁状態というのは、考えることすべてがいい方にしか考えられないというそんな時間である。
「躁状態が来たって、次にはまた鬱がやってくるんだ」
 という思いがあるからで、正常時に戻らない限り、この悪循環から逃れることはできないのだ。
「要するに、極端な感情は、ロクなことを考えさせない」
 ということであり、
「負のスパイラル」
 を継続させるだけでしかなかった。
 矢吹がいつも何かを考えているようになったのは、この躁鬱状態が始まってからだ。小学生の頃にもいつも何かを考えていたように思えたが、それは躁鬱状態に入った時に思い出すことで、そんな感覚になるからだ。正常時に小学生の頃のことを思い出すこともあるが、その時の思い出というのは他愛もないことしかなく、まるで、
「作られた過去の意識」
 を彷彿させるものとなっていたのだった。
 矢吹はその日、
「久しぶりに自分が鬱状態に陥っているのではないか」
 と感じた。
 ただ、その予兆があったとすれば、先日の綾香との出会いに起因しているのではないかと思っている。
 あの日は別に何かの予兆を感じさせるものもなく、彼女と別れてからも、別に何かの違和感に捉われたわけでもない。それなのに、そんな予感があったというのは、後になってから感じる思いであり、そう感じるということが、そもそも鬱状態の入り口を予感させるものに他ならなかった。
 四十歳から急に毎日時間が経つのがやたらと早くなった。
「年を取ると一日一日が早くなる」
 というのは分かっていたことだし、嫌というほどまわりからも聞かされた。
 それがどういう意味なのか分かっていなかったが、漠然と、
「年を取ると一日一日が早くなる」
 と思うようになった。
 しかし、その感覚は少し違っている。
 明らかに四十歳までとは何かが違っている。四十歳までは一日一日を意識しなくても、後から思い出せばそれがいつだったのかすぐに分かるからだった。四十歳を過ぎてある頃から、
「あれっていつのことだったっけ?」
 と、昨日のことであっても分からなくなってきた。
 一日一日の区切りが分からなくなってきたのだ。
 このことを他の人に相談したことはなかった。相談して自分だけが違うということを宣告されたくなかったからだ。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次