意識が時間を左右する
自分から何も言わないようにはしていた矢吹だったが、話しかけてくれる人を無碍にするようなことはしなかった。
「来るものは拒まず」
とでもいうのであろうか、矢吹は酒が入ったこともあって、久しぶりに饒舌だった。
彼は別に自分がライター志望というわけではなかった。ただの好奇心から矢吹に話しかけてきたのだ。矢吹としてはその方が気が楽だった。自分の言動が彼に直接的に何か影響を与えるわけではないと思ったからだ。年齢的なもので彼よりも人生を長く生きている先輩という意識があっただけで、その思いが饒舌にさせたのかも知れない。
もちろん、余計なことは言わないつもりで相手の話に合わせているだけだったが、矢吹の返答は彼の考えている返答に合致したようで、話が合っていたのだ。
「いや、いいお話が聞けて嬉しいです」
と彼は素直に喜んでくれた。
矢吹も久しぶりに喜んだが、酔いが冷めると、いつもの冷静な矢吹に戻っていた。
しかし、今回は饒舌だったことに後悔はなかった。
「これが俺の本当の姿なのかな?」
とも感じるようになり、それまでの極端な余計なことを言わないという考え方が、少しではあるが緩和されたようだった。
矢吹が同窓会に出てみようと思ったのは、何かの予兆を感じたような気がしただけだったが、それがこの間の綾香との出会いであったというのは、考えすぎではないかとも思ったが、予感めいたことを信じないわけではない矢吹は、
「今が予感を信じてもいい時期なのではないか」
と思うようになっていた。
矢吹はそれからしばらく人と話す機会も得たが、若い頃と違って人と話をしても印象に残らなくなっていた。
――忘れっぽくなったからなのかな?
とも思ったが、どうもそれだけではないようだ。
「歳を取れば、同じことを繰り返して話すようになるからな」
という話も思い出した。
しかし、歳を取ったと言っても、まだ五十代、今に時代ではまだまだ若いうちだともいわれるくらいの、いわゆる中途半端な年齢なのかも知れない。
ただ、サラリーマンであれば、定年という年齢も近づいてきて、いやが上にも年齢を意識するのかも知れない。しかも家庭を持っている人には、奥さんがいて子供もいて、子供が自立する年齢になり、孫でもできると、
「もはや自分たちの時代ではない」
と思うようになるかも知れない。
年齢を感じたからなのかどうかは分からないが、何にでも感動するということはなくなってきた。だから時間も短く感じられるのかも知れない。
矢吹が人と関わらなくなったのは、若い頃のような煩わしさとは少し違っている。言葉にすれば、
「煩わしさ」
という意味に集約されるのだろうが、意味としてはまったく違っているように思う。
矢吹は最近、自分が二十代だった頃、そして四十代の頃、そして今とをそれぞれ周期的に感じるようになった。それは過去の自分と比較している時もあるが、単独に感じる時もある。特に若い頃のことを思い出すと、自分がまだ果てしなく遠いと思っていた四十代や五十代の人をどのように見ていたのかが思い出されるのだった。
今から思えば二十代の頃は上ばかりを見ていたような気がしていたが、それは先の自分を見ていたわけではない。見えるわけもないし、見えたとしてもそれは幻影でしかない。そんなことは分かっているので、見ていたとすれば、反面教師としての年上の男性だったのかも知れない。
身近な対象としては、取材した相手ということもあるだろう。しかし、文芸部で取材の対象になる人というのは、社会的にも認められた知識人がほとんどで、インタビューにおいても、礼儀正しい返答に終始していて、決して負の部分を見せることはなかった。
しかし、そんな知識人の人たちであっても、スキャンダルを暴かれて、それまでの知識人としての仮面が一夜にして剥がされてしまうことも少なくない。そんな時は、
――俺はどうしてそのことを見抜けなかったんだろう?
と、若い頃は感じたものだった。
確かに見抜けなかったのは仕方のないことであり、自分たちは社会部でもなければ、芸能関係でもない。あくまでも知識人としての尊敬に値すると思われる人を取材しただけだった。
不倫などのスキャンダルで後になって騒がれたとしても、果たしてその人の人格であったり、その道での威厳が損なわれたと、一概に言えるものだろうか。矢吹はそう思うことで、自分の正当性を自らに主張し、矢吹にとっての目が確かだったことを自覚したいのであった。
まわりの世界は、矢吹がそんなことを考えているなど、分かっている人が果たしているのだろうか? 一緒にその時に取材した人であっても、
「あれ? この人、この間取材した人じゃないですか? こんなことをするような人には見えなかったけどな」
と、まるで他人事のように言っている。
確かに取材した時に、スキャンダルの種があったのかどうかは分からないが、
「悪いことをする人はしょせん、ずっとそういう人間なんだ」
という人もいるが、果たしてそうなのだろうか?
矢吹は、自分の人を見る目に対して疑念を抱いてしまった原因が、その人にあると思っていたが、自分の見る目に正当性を持とうと思うと、悪いのはスキャンダルを起こした人というよりも、それを暴いた記者の方にあるという八つ当たり的な考えを持った時もあった。
八つ当たりだということは分かっている。スキャンダルの内容が社会的倫理に違反していることも分かっている。そうでなければ、いくらゴシップ週刊誌と言えども、まったくのウソを書くわけではないので、そこは信用しなければいけないだろう。
だが、彼らも自分と同じ穴のむじなであり、生活をしなければいけないということでの職業だと思えば、彼らを責めるのも筋違いだ。
そう思うと、もっと多くな問題は、
「スキャンダル好きの世の中の人間ではないか」
と思うようになった。
そんなやつらがいるからゴシップ週刊誌が売れるのだし、商売としても成り立っている。そういう意味では「必要悪」なのではないかと言っておいいだろう。
もっともその記事が出たからと言って、少しでも世の中からスキャンダルがなくなるというわけでもない。何かの警鐘を与えるというわけでもないので、ジャーナリストとしての理念とは関係のないところで記事は出ていることになる。
だが、ゴシップを取材する連中も、
「仕事だから」
というだけでやっているわけではない。
彼らには彼らの中に持っている正義があるはずだ。それが本当にいいことなのか悪いことなのかは分からない。表に出ていることというと、
「スキャンダルをする人がいて、それを取材することで週刊誌が売れる。それを読む読者がたくさんいるからだ。だから、ジャーナリストはスキャンダルを追うのだ」
ということであろう。
よくテレビドラマになったりするのは、そんな記事を書かれた当事者の家族が、まわりからあることないこと、誹謗中傷を受けて、家庭崩壊に繋がるというのをよく見る。
視聴率もよかったりするので、見たような話はたくさん作られるだろう。
よくよく考えると矛盾している。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次