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意識が時間を左右する

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さすがに理不尽だと思い、今までにこんなことがなかったと思っている矢吹は頭の中がパニくってしまっていた。
「ちゃんとご連絡したではありませんか? いまさら聞いていないなどと言われても」
 と口答えをしてしまっていた。
 売り言葉に買い言葉だと相手は思ったのか、それともこちらが反発することを最初から予期し、事態を収束させるどころか拡大させることを考えていたことで、
「おいでなすった」
 とでも思ったのかも知れない。
 売り言葉に買い言葉であれば、完全に収集はつかなくなる、罵声の応酬に、どちらが最初に言い出したのか、さらには何が真実なのか、そして何が原因だったのかということすら意識の中から消えてしまう。あるのは、
「相手に負けないようにしなければいけない」
 という対抗心と、
「正義は自分にある」
 というこちらの正当性だけである。
 そうなってしまうと、お互いに歩み寄るということはありえなくなってしまい、意地の張り合いで終始してしまうだろう。
 確かに理不尽ではあったが、立場的にはこちらが弱いのは一目瞭然だった。我に返って考えると、謝らなければいけないのは矢吹の方だ。謝ってでも取材をしてもらわないと、記事に穴をあけてしまうことになる。それは避けなければいけないことだった。
 我に返った矢吹は、相手に必死に謝ったがすでに後の祭りで、相手が歩み寄ってくれるはずもなかった。相手は職人という、自分に自信を持たなければやっていけない人種だということも、今までの取材経験で分かっていたはずなのに、切れてしまった自分に矢吹は猛省したが、その時は記事に穴が開いてしまい、初めて出版社との間に溝ができた。
 さすがにこれまでの関係の深さと、他に記者がいなかったということもあって、切られることまでには至らなかったが、ライターとしての自分のプライドも自信もズタズタになってしまっていた。
 そんな矢吹だったが、その頃からだったろうか、余計なことを話さなくなっていた。
 別に取材で相手を怒らせてしまったことは、自分が何か余計な事を言ったわけではないと思っていたのだが、どうやら相手の方に何か事情があり、矢吹が余計な何かを口にして、
「藪をつついて、ヘビを出してしまった」
 ということだったようだ。
 相手は決して自分の非を認めようとはしないし、事情の詳しいことは闇の中ではあったが、あくまでもウワサとして聞いた部分では、
「矢吹さんは運が悪かった」
 という話になっているようだった。
 だが、その時に聞いた話の中で、
「あの人は、そんな理不尽な人ではないはずなんだけどね。急に怒り出すなんて初めてだわ。矢吹さんが何か癇に障ることを言ったのかも知れないわね」
 という説が有力だった。
 確かにそうかも知れない。理屈としては、そう考えるのが一番妥当だし、そういうことであれば、矢吹も納得がいく。
 矢吹は取材の時、相手の緊張を和らげるために、いつもまず世間話のようなことから話を始める。この時自分がどんな話をしてしまったのか、その後に急に怒り出してしまったというショックから完全に忘れてしまっていたが、逆に言えば、簡単に忘れてしまうような気楽な気持ちで相手のことも考えずに話しかけたのかも知れない。うかつだったといえばそれまでなのだろうが、相手が何を考えているかなど、分かるはずもなく、無難な話から入ったつもりでも、相手の気分を害してしまえば、まったくの水の泡となってしまうのだ。
 それなら、
「余計なことを何も言わないに越したことはない」
 と考えたとしても、無理もないことであり、こんな経験をした矢吹からすれば、当然のことである。
 それからの矢吹は出版社に行っても余計なことを話すこともなくなった。
 余計なことを話さないということは、同時に気を遣うこともなくなったということでもあった。
 それまでは出版社に顔を出すことがあった時には、必ず何か手土産を持って出かけていた。
「ありがとうございます、矢吹さん。いつもすみませんね」
 と言って喜んでくれていたことを、
「いえいえ、いつもお世話になっていますから」
 といって、喜んでもらえることに悦に入っていた。
 しかし、手土産を持って行かなくなると喜んでもらえないが、嫌がられる様子もない。
――俺は今まで何をしていたんだ?
 と感じた。
 人に気を遣って何かを持ってきたとしても、それが何かのためになるわけでもなく、ただの自己満足にすぎないのだ。当然のことながら、今までの手土産があの時失った信用に影響を及ぼしたなどということがあるはずもない。まったく別のことであり、気遣いを無駄なことだったとは思いたくはなかったが、事実としてそうだったわけなので、自分で納得するしかないのだった。
 人に気を遣わなくなり、余計なことを言わなくなってから感じたことは、
「早く一日が終わってほしい」
 という思いだった。
 平和に何事もなく終わることが何よりも一番であり、最初の頃は一日一日がなかなかすぎてくれないと思っていたのに、そのうちに、あっという間に過ぎるようになっていることに気が付いた。
 それは無意識のうちであり、
「無意識だからこそ感じるようになった」
 と思うようになっていた。
 その頃までは、毎日がなかなか過ぎてくれないと思っていたのに、一週間はあっという間に過ぎたと思っていた。
 しかし、一日があっという間に過ぎるようになってからというもの、
「一週間は結構長く感じられるんだろうな」
 と思っていたにも関わらず、実際にはあっという間に過ぎてしまうように思えてしまったのだ。
 一日一日に感じる時間の感覚と、一週間という単位で感じる時間の感覚は、それまでは正反対に思えていたのだ。しかし、その時から一緒になってしまい、一週間があっという間に過ぎるくらいなので、一か月も一年もあっという間に過ぎていた。
「三十歳を過ぎると時間が経つのが早くなり、四十代になると、もっとどんどん早くなってくる」
 と若い頃に言われていたが、それを本当に実感することになるとは、思っていなかったわけではないが、感じたことにショックを覚えたというのが事実だった。
「それって、先が見えてくるからということなの?」
 と聞くと、
「そんなことはないよ。自分ではまだまだ若いという気持ちでいるのは間違いない。でも何かが違うんだ。それが今まで知っている若さとは微妙に違う何かなのかも知れないと思うんだ」
 と言われた。
 その時の言葉を三十代になって思い出してみたが、ピンと来るものではなかった。
「じゃあ、どうあなたなら表現しますか?」
 と聞かれたとすれば、頭の中で整理できるものではなかった。
 きっとある時、急に頭の中に閃くものがあって、口に出してしまわないと気が済まない時が来るのだろうと思ったが、実際に自分にもそんな時が訪れた。
 四十前くらいだっただろうか、相手はまだ二十歳代だった。それほど仲がいいというわけではなく、取材先に宿泊していた青年だった。
 余計なことを口にしないと自分から誓っていた矢吹なので、自分から積極的に仲良くなったわけではない。彼は取材をしている矢吹に興味を持ち、夕食の際にいろいろ話しかけてきたのだった。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次