意識が時間を左右する
「ついつい先を読んでしあうのは気が短いからなのか、それとも結論を早く知りたいからなのかのどちらかだろう?」
と思っていたが、そのどちらも突き詰めれば同じところに着地する気がした。
国語の点数が悪かったのもそのせいではなかったかと今では思っている。
大学に入ってからは、いろいろなジャンルの本を読み漁った。最初はミステリーから入ったのだが、ミステリーを見ていると、
「結局はいくつかのパターンのバリエーションにしか過ぎない」
という結論に至った。
しかし、この結論が却ってミステリーを読むことに自分を没頭させたのだから面白いものである。自分でもいろいろなバリエーションを組み立ててみようと考えるようになった。
さすがに自分でミステリーを書いてみようとまでは思ってはいなかったが、いろいろなトリックやシチュエーション、そこに結び付いてくる伏線、そしてラストの意外性などを加味して考えてみると、結構面白いストーリーが生まれたりしたものだ。
それを矢吹は文章に起こすことはせず、箇条書きにして自分の中で整理して、友達に話すことで、満足していたのだ。
一種の自己満足でしかないのだが、
「文章に起こすことだって、結局は自己満足にすぎない」
と思っていたこともあって、それでよかったのである。
教師になり、その経験を生かすことができたと思っていたが、教師を辞めるに至って、今度は文筆業に従事するようになると、大学時代の発想は頭の中で封印して、それよりも文章を書くことで褒められた中学時代を思い出すようになった。
あの頃は本を読んでいたわけでもないのに、文章が勝手に生まれてきて、それを褒めてもらえた。
「もし、あの頃に文章を読むのが好きだったら、もっと文章が上達しただろうか?」
と思ったが、
「そんなことはないような気がするな」
と漠然とだが感じた。
結局は努力しようが、努力せずとも行き着くところとの差は、さほどないような気がしていた。こういうと、
「実も蓋もない」
と言われるのであろうが、いろいろ何かを考えるにあたって、必ずどこかに限界というものがあり、そこにぶち当たってしまうと、結局は堂々巡りを繰り返すことになるのだということを、どこかの時期で矢吹は悟っていたに違いない。
それは年齢からくるものなのかどうかは分からない。しかし、自分の中で吸収できるものを吸収すればするほど、飽和状態になるのは避けられず、飽和状態になると、そこから先は放出するか、消化させるかのどちらかをしなければ、自分がパンクするだけだ。
堂々巡りに陥っているという自覚がなければ、きっと消化することはできないのではないかと思う。消化できずにいると、放出するしかなくなってしまい、放出してしまうと、今度はまったくなかったことになってしまうということを、矢吹は最近気付くようになった。
そこまで考えると、夢の中で見たものを覚えていないというのは、消化できずに目が覚めている間に放出してしまい、放出が終わると覚えていないということになる。目を覚ますという状況は、飽和状態になったものを消化するか放出するかを選択し、そのどちらかを持って目を覚ます。覚えている夢は消化できたのであろうが、いかんせん、覚えていることというのは、消化した残りということになる。
「夢を見た中で覚えている夢って、怖い夢ばっかりなんだ。どうしてなんだろうな?」
という友達の話を思い出した。
その時矢吹も、
「まったくだ」
と答えたが、この言葉に自分の気持ちの全部が入っているように思えてくるから不思議だった。
夢というのを絶えず考えているような気がしたのは、フリーライターになってからだ。
それまではいつも前ばかりを見て過ごしていた。前というよりも上と言った方がいいかも知れない。
教師という仕事を辞めなければいけなくなったことで、それまで感じたことのない本当の意味での挫折を味わったと思った。
「挫折というのは、自分の中で後ろ向きの発想という思いを抱いた時にしか感じることができないものだ」
と思うようにもなった。
初めて感じた後ろ向きへの考え方、今まで上ばかりを見てきたことを痛感した矢吹が感じたもう一つの思いは、
「気持ちに余裕なんかあるわけもないよな」
というものだった。
上を見ていると、下が見えない。下手をすると下に何もないことに気付いてしまうかも知れない。上ばかりを見ていると、下に何もなくとも立っていられるような気がしていた。何もないということを感じながら意識しないということは難しいことだ。ちょっとでも下を見ると本当にそこに何もないことを自覚してしまう。上ばかりを見ている時は下に何もなくとも何とかなるもので、いわゆる、
「決して見てはいけない」
というタブーなのではないだろうか。
そこまで感じてくると、
「開けてはいけない」
と言われるおとぎ話や神話の話、
「パンドラの箱や玉手箱」
という発想も分かってくるような気がした。
余裕のない人間が、見てはいけないものを見てしまうと、悪いことしか起こらないという教訓なのかも知れない。(ただ、玉手箱の話は諸説あるため、この場合に当てはまるかどうか、作者にも疑問ではある)
逆に、
「余裕のない状態だからこそ、見たくなってしまうというのが人間の性と言えるのではないか?」
という思いである。
それを見越して相手も、
「見てはいけない」
と言っているのであれば、作為が感じられたとしても無理のないことであろう。
綾香との出会いに運命のようなものを感じながら、矢吹は同窓会の日を迎えることになった。
同窓会
その日は朝からどんよりと曇っていた。前の日までは日が差していたが、放射冷却の影響か、朝は布団から出たくないと思うほど寒い日が続いていた。久しぶりに布団から出るのを億劫に感じることもなく目が覚めたことは、よかったと思うべきことなのであろう。
「そういえば、最近、何かに感動したことなんかなかったな」
と矢吹は感じた。
人と話すこともめっきりと減ってしまい、仕事での会話と言っても必要なこと以外口にすることもなく、雑談などというのは本当に久しかったと思う。
もっとも他人との付き合いは、仕事上での付き合い以外にはないと割り切っているのは矢吹の方だったからだ。人に情報を提供するはずの仕事をしているはずなのに、勝手に自分で境界線を作ってしまうなど、ライターになった時には思ってもみなかったはずなのに、一体いつからこんな風になってしまったのか、自分でも分からなかった。
一度取材で、嫌なことがあった。いつも取材をする時は前もってお膳立てをした上で取材に及ぶのが最低限のルールであり、それを破ったことなど今までになかったことが矢吹のポリシーでもあった。
しかし、ライターになって七年目か八年目だったであろうか。自分でもやっと一人前になれた頃だと思っていた時のことだった。
矢吹はそれまで通りにきちんと筋を通して取材に及んでいたはずだったのに、取材許可を得ていたはずの相手から、急に怒りをぶちまけられたのだ。
「そんな話は聞いておらん」
そんな言い方だったと思う。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次