意識が時間を左右する
矢吹は過去に読んだマンガを、人と話をしている間に思い出すなど今までにはなかったことだ。しかも、ここまで深く感じるなど、ここまで深く掘り下げるにはかなりの時間が掛かるはずだと思うのに、実際にはそれほどの時間が経っているような気はしない。実際に目の前にいる綾香が長考に入っているはずの矢吹を見て、別に焦れているような気がしないからだった。
だが、時間的には自分が感じているよりも経過しているようだった。長考の時間がどれほどの長さだったのかを考えなければ、自分の中で時間を整理できていないと思えてならない。
「結構な時間になってきたね」
と矢吹がいうと、
「今度、またお話聞いていただけますか?」
と言われ、
「もちろん。あなたさえよければ」
「よかった」
ということで、連絡先を交換してその日は別れた。
――今日のは何だったんだろう?
と思わないわけではなかったが、綾香と別れて時間が経過するにつれ、次第に綾香との時間が薄っぺらいものに感じられてきた。
――マンガのストーリーに思いを馳せるのに時間を掛けてしまったからかな?
と思ったが、どうもそうでもないようだ。
夢のような時間だと感じたことが、時間が経つにつれ、実感として湧いてくるのを感じたのだ。
夢というのは、目が覚めるにしたがって、その意識が薄れていくものである。さらに、どんなに長い夢を見ていたとしても、目が覚めるにしたがって感じる実際の時間に比べればどれほど短いものなのか、感じないわけにはいかない。
実際に目が覚めてしまうと、夢を見ていたということすら本当のことだったのかと疑ってみたくなるくらい、漠然としたものに変わっていることがある。たった今覚めた睡眠の中での出来事のはずなのに、それが昨日の睡眠だったのか、おとといの睡眠によるものなのかすら分からないくらいになっている。
要するに時系列において、感覚がマヒしているということなのだ。
それをどう説明すればいいのかと考えると、やはり現実の世界と夢の世界とでは、次元が違っていると思うのが一番しっくりくるのではないだろうか。
四次元の世界を創造した場合、テレビなどでは、
「目には見えないけど、声が聞こえる」
という不思議な空間が出来上がっている。
同じ空間にいるから声が聞こえるのか、それとも空間が違っているから姿が見えないのか、一つのオブジェクトだけに注目してしまうと、きっと説明はつかないのだろう。
どちらかを説明しようとすると、どちらかの説明がつかなくなるという感覚が、「次元の違い」という解釈で説明できるのだとすれば、「次元の違い」という概念は、まだ説明がつくだけの確証を得られていないということになる。考え方はずっと昔から提唱されてきたが、実際に証明することは難しい。そうなってくると、提唱自体の信憑性が疑わしくなってくる。
夢の世界の話もそうである。実際に覚えている夢と忘れてしまった夢のそれぞれが存在しているのだが、覚えている夢というのは、全体のごく一部にすぎないと思っている。
しかし、ここでまた一つ疑問に思えてくる。
「どうして、ごく一部だと言えるのか?」
ということである。
なぜなら、覚えている夢と覚えていない夢の二つが存在しているとして、覚えている夢はいいだろうが、覚えていない夢が存在しているのを理解しているということは、
「夢を見た」
という感覚は自分の中にあるということである。
しかし、夢を実際に見ているのに、それすら意識をしていないという夢の存在をどう考えるかということなのだが、もしそんなパターンがあるとすれば、まったく自分の感知しているものではないだけに、どれだけの数があるのか、まったく分かるはずのない世界である。
それも含めるとすると、ごく一部がさらに極々一部ということになるのだろうが、それをへ理屈として考えることができるであろうか?
矢吹はそこまで考えると、目に見えないものの存在をすべて否定できない自分をかじることができる。却って目に見えない存在が重要なのではないかという考えに至ることもあるくらいで、これを考え始めると堂々巡りに入り込んでしまう。
――まるでロボット工学における「フレーム問題」のようだな――
と考えてしまう。
ロボット工学におけるフレーム問題とは、ロボットに搭載されている人工知能のように有限の状態の状況を計算によって理解し、行動することができるものに対して、実際には無限の可能性が次の瞬間には発生する。それをロボットが解釈できないという考えである。
しかし、一つの現象に対しては考えられる発想は有限であるはずだ。人間であればそれは理解しているのだが、ロボットには理解できない。例えば、
「目の前の扉を開けて、部屋の中に入れ」
という命令をした場合、普通であれば、扉を開ければどうなるかということだけを判断すればいい。
しかし、可能性ということで、まったく扉を開けることと違う発想をしてしまうということである。関係のないことを、関係がないという判断をするためには、考えられることを一つの枠に当て嵌めて、その数だけロボットにプログラミングしておけばいいという考えが出てくる。これが「フレーム」、つまり枠という考え方だが、そもそもその「フレーム」こそ、無限の可能性を持っているというもので、それをプログラミングするというのは実に不可能なことだ。それをロボット工学における「フレーム問題」というのだ。
考え方が堂々巡りを繰り返す。これは夢を見たことへの可能性と類似したものではないだろうか。
ロボットというものに対しての考えは百年以上も前から考えられている理論であり、話題になっている「ロボとt工学三原則」にしても、初めて提唱されてから五十年以上も経っているのだ。
それからの科学の発展の目覚ましさに比べて、ロボット開発に関しては進んでいないと言ってもいい。そこにはこの「フレーム問題」という壁が、まるで結界のごとく大きくy立ちはだかっているに違いない。
矢吹にとってロボットへの考え方は今に始まったことではなく、教師をしている頃から大いに興味を持っていた。もう三十年近く前のことであるが、その頃に初めて「ロボット工学三原則」という発想に出会って、その時にも大いに感動したものだった。
教師を辞めなければいけなくなり、それどころではなくなったこともあって、あまり理工学に関して考えないようになった。
実際にフリーライターになってからは、文芸であったり、歴史であったりと、もう少し抒情的なものに引かれていき、本を読むのが好きになったのも、その頃からだった。
読んでいて難しくないことが一番ありがたかった。難しくもないのに、気が付けば嵌ってしまって、夜を徹して一気に読んでしまうことも珍しくなかった。それを思うと元々本を読むことへの抵抗はなかったということであろうが、中学高校時代はまったく本を読むことはなかった。
本を読むようになったのは大学に入ってからで、その頃までは文章を読むとしても、セリフだけを端折ってしまい、文章に関してはほとんど無視していた。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次