意識が時間を左右する
つまりは、自分が教師という特別な人間ではないということだ。自分を特別な人間だと思うことで、相手との関係を初めて考えることができる。自分というものを顧みずに相手との関係だけを探っていれば、それは当然平等で見ることができないのも当たり前のことである。
教師というのは、生徒ありきで教師だと思っていた。確かに他の商売だって、
「客があっての販売員」
という関係にあるだろう。
相手に責任があるという考えも基本的に同じだが、その責任の範疇が違っている。買ったものを消費するまでが販売員や開発者、製作者の責任なら、教師というのは、どこまでが責任なのだろう。
学校を卒業させるまでが責任というのだろうか?
卒業した生徒が何か問題を起こした時、
「卒業したんだから」
ということで責任逃れができるのかどうか、疑問である。
在学中から問題が継続しているのであれば、問題が起こった際に問題を調査する人たちはきっと過去に遡って在学中に辿り着くかも知れない。その時、当事者として教育に携わった者に対し、質疑応答が行われたり、当時の資料を調べられたりするだろう。
教師としては理不尽な気持ちになるだろう。
――もう卒業したのに――
そう思って当然だ。
「卒業させれば、責任はその後に引き継がれるはずなのに、なぜゆえ、いまさら過去に遡る必要があるのか」
そう言いたいのをグッと堪えなければならない。
これも教師の責任の範疇だとすれば、教師は何を根拠にして教育をしなければいけないのか。教育のためのマニュアルや今まで培ってきた経験からの教育を否定されてしまうと、教師もトラウマに陥っても無理のないことである。
しかし擁護されるのは生徒の方ばかり、もちろん問題を起こしたのだから、生徒も罰せられるのだろうが、そのとばっちりがこちらに向いてくるというのはたまったものではない。
――こんな理不尽あっていいのか?
と思っても無理はない。
それだけ教師というのは難しい商売である。特に今では先生が生徒を教育と称して、少しでも手を挙げれば府警や教育委員会が黙ってはいない。
もちろん体罰というのはあってはならないことだが、それは一部の教師と言えない連中の行うことで、いわゆる、
「愛のムチ」
を体罰と一緒にされてしまっては、教師はどうすればいいというのだ。
苛めの問題にしてもそうだ。表に出ていることだけが問題になるが、影でどれだけのことが行われているか、全体を見ることができなければ、どんなに問題にしたとしても、根本的な解決にはならない。
――どうしてそんなことが分からないんだ――
と、上層部を恨んで見たこともあった。
「要するに、この世は理不尽なことばかりなんだ」
という結論に至るしかないではないか。
矢吹は、教職を追われる形で転職した。しかし、今となって思えば、いいタイミングだったのではないかと思う。もし、あのまま教師を続けていても、いずれは辞めなければいけない事情にぶち当たっていたと思うし、もし辞めなければいけないだけの事態が起こらなくても、自分の中で徐々にストレスが溜まっていき、そのうちに確固たる理由もないトラウマが形成されていたかも知れない。
こっちの方がよほど恐ろしい気がする。
「理由が分からないトラウマ」
これほど恐ろしいことはない。
対応のしようがないからだ。何をどうしていいのか分からないことほど恐ろしいことはない。それを思うと矢吹は教師を辞めなければいけなかったことをポジティブに考えられるようになった。
もちろん、今では教師に戻りたいなどという思いはまったくない。辞めた瞬間からずっとその思いに変わりはなかった。それを、
「後悔はしていない」
という言葉で片づけられるとは思っていない。
ポジティブに考えられるようになったことと、後悔をしていないということとは微妙に意味が違っているように思ったからだ。
ただ、
「あの時に、こうしていればよかった」
という考えではない。
「こうしていれば」
という具体的なアイデアが自分の中にないからだ。
それは当たり前のことのように思う。その答えを見つけることはできないと思っているからだ。後になって分かることであれば、あの時に分からなかったのだとすれば、それは自分が未熟だったということを証明しているように思うからだ。
確かにあの時自分は未熟だったと思うが、あの時に考えられることは十分に考えたつもりでいる。ただ一つ気がかりな部分もある。
「あの時の思いは、堂々巡りを繰り返していた」
ということであった。
もうすぐ結論めいたところに行き着くかも知れないと思った時、考えが一周してしまい、最初に考えていたところに戻ってきたことだ。その時は、
「考えが一周した」
という思いはない。
せっかく辿り着けそうな道をほとんど来ていたのに、またしてもスタートラインに戻ったという考えであった。
一周したということが後になって冷静になり考えた時、分かった気がしたが、目の前に漠然と見えていたゴールが、実は最初のスタートラインだったというオチを、考えれば考えるほど認めざる負えなくなっていた。
だが、もう一つの考えが頭を巡った。それは目の前に見えているスタートラインが、本当にこの事案のスタートラインなのかということである。
実はこの事案にはいくつかの段階があり、その都度別のスタートラインが存在しているという考え方だ。
つまりは目の前に見えているのは、最初のスタートラインではなく、新たなスタートラインだという考えだ。元に戻ったわけではないと思うと脱力感が消えて。また前進できるのではないかと思えたが、実際にはどうであろう? せっかくゴールだと思っていた先にスタートラインが見えるという事実は隠しようのない事実である。逆に言えば、
「スタートラインが一つではないということは、次のスタートラインの先にもゴールではなく、新たなスタートラインが存在するのではないか?」
という思いである。
ただ、目の前のスタートラインが最初のスタートラインで一周して戻ってきたという考えに立ったとすれば、
「このループが永遠に続けばどうしよう」
という考えに至ってしまうだろう。
どちらにしても、見えてはいけないスタートラインなのだ。最初のスタートラインを意識してしまえば、その後はゴールを切るまで、スタートラインを意識してはいけないということになる。
今まではスタートラインの先にはゴールしかなかったので、事なきを得てきたというだけのことなのかも知れない。
だが、本当にそうなのだろうか。
この瞬間の次の瞬間には無限の可能性が秘めている。いわゆる
「パラレルワールド」
という考え方だ。
無限の可能性は、さらに次の瞬間にも無限の可能性を秘めている。無限の無限というおかしな考えも生まれてくることだろう。
矢吹は教師を辞めた時、そこまで考えていたわけではないと思っていた。しかし、今思い返せば、確かにそんなことを考えていたという思いがある。
――では一体、どこでそんな感覚を覚えたんだろう?
矢吹はそのことの方が気になってしまった。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次