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意識が時間を左右する

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 矢吹も確かに今の職を天職にできたのは、
「運がよかったからだ」
 と思っていたが、それ以外にも気持ちの中での変化がこの運に匹敵するくらいの影響を与えたのではないかと思うと気持ちが楽になった気がした。
 それが気持ちの中の余裕であり、余裕があるから、いろいろな考えが浮かんでくるのであって、浮かんできた考えは、表に放出する力を有しているのではないかと思えたのであった。
「やっぱり、僕は運がよかったのかな?」
 と軽く矢吹が呟くと、
「運も実力のうちですからね」
 と綾香は軽くフォローしてくれているような口調で語った。
 フォローはしているが、別に賛同しているわけでもない。かといって、運がよかったということを実力とは別のものだという否定があるわけでもない。そんな気持ちが軽い言葉になって現れたのはないかと、言った本人である綾香も、それを聞いていた矢吹も同じように考えていたが、相手もまさか同じようなことを考えているなど、お互いにその時は知る由もなかった。
「でもね。最初に考えたことにまた戻ってくるという考えも、僕はありではないかと思うんだよ」
 と、矢吹は言った。
 最初の考えがいいのか悪いのか分からないまま、紆余曲折を介して元に戻ってくれば、もはやその考えは悪いことには繋がらないだろう。いいことなのかどうかは別にして、その時の最善に行き当たったに違いないと思うからだった。
「これ以上は、もう考える必要はないんだって私はその時に思ったんです。考えに考えて行き着くというのは、普通であれば分からないものですよね。考えれば考えるほど、もっと他にいいことがあるんじゃないかって思うのは当たり前で、考えることに果てなんてないんだって思いますよ。でも、もし果てがあるのだとすれば、それは最初に考えていたところに戻ってきたという確固たる事実があれば、それはもはや果てに当たるのではないかって思うんです」
 と綾香がいうと、
「そうだね。ところで綾香ちゃんは、将棋で一番隙のない陣形というのは、どういう状態なのかって考えたことはあったかい?」
 矢吹は唐突にそう聞いた。
「いいえ、考えたことはなかったですね」
 と綾香がいうと、矢吹はニコニコしながら、
「それはね。最初に並べた布陣なんだよ。つまりは一手差すごとにそこから隙が生まれる。そんな話を聞いたことがあったんだ」
「なるほど」
 矢吹の言いたいことは、やはり最初に考えたことに繋がっていた。
 間髪入れずに綾香は言葉を続けた。
「今初めて聞いた話だったんですが、前にも聞いたことがあるような気がするのは気のせいなのかしら?」
 と綾香は言った。
「前にも聞いたことがあると感じたのは。それだけ自分の中で答えを導くことはできなかったけど、途中までは考えていたということなのかも知れないね。えてして人間にはそういう感覚って結構あるようで、かくいう僕も同じような思いをしたことが過去にもあったのを思い出していたよ」
 矢吹のこの言葉は半分ウソが混じっていた。同じような思いを感じたことはあったが、本当に結構あるものなのかに関しては、正直分からなかった。
 いわゆる、
「言葉のアヤ」
 なのだろうが、無意識のうちに使う言葉の中で、相手になるほどと感じさせる言葉が結構あるように思ったことが、この時の、
「結構あるようで」
 という言葉に結び付いたような気がしていた。
 綾香がどのようなライターを目指しているのかということは、この際矢吹にとっては、それほど大きな問題ではないと思っていた。それよりもライターになりたいと言った言葉がどこから来ているのかという方に興味があった。自分のように教師という仕事から挫折して、その後に、
「文章を書くのが好きだったから」
 という理由だけでライターを目指した。
 これが動機としては薄いということは分かっていた。だからフリーライターでもいいと思ったのだ。
「とりあえず書く仕事に就きたい」
 この思いが自分の中で本物なのかどうか、そっちの方が分からない。
 不安があるとすれば、根本の気持ちの方だった。覚悟などという言葉はまったく関与しない問題だった。
――覚悟なんて一生のうちに、そう何度もできるものではない――
 というのが持論なので、最初の就職でその思いはもうしないと思っていた。
 矢吹が結婚を考えなかったのは、覚悟をすることができなかったからだ。いや正確に言えば、
「覚悟をすることができなかったわけではなく、覚悟をしなければいけないということを忘れていたのだ」
 ということだった。
 人生に節目があることは分かっている。結婚や就職もその一つであるということは、無意識にでも分かっていることだった。そして人生の節目に覚悟がいるということも感覚的には分かっていたつもりでいる。しかし実際には、その節目に覚悟をしなければいけないということを、「その時」が来ているにも関わらず、意識することができないでいた。
 節目が訪れた時の覚悟は、
「無意識のうちに」
 という感覚では済まない。
 あくまでも覚悟というものを意識することで自分を奮い立たせるアイテムにしないといけないからだ。それを怠ると臆病風に吹かれてしまい、ついつい楽な方へと自分を導いてしまう。結婚を考えなかったというのも、結婚というものに対して、途中から冷めてしまったことが要因だと思っている。冷めるということは人生のターニングポイントだという意識がないのだ。一度結婚を考えた時、その時に強引にでも自分の意志を貫くことができなければ、それ以降結婚というものを考えた時、また逃げに走ってしまう。一度逃げてしまうと逃げ癖がついてしまい、しかも年齢的にどんどん適齢期を過ぎてしまうのだから、
「結婚できないのも当然だ」
 と諦めを言い訳と混同してしまい、それが自分を慰める理由として確立されてしまうと、
「一度持てなかった覚悟は二度と持つことができない」
 と思うようになるのだった。
 一度持てなかった覚悟は、後になればなるほど後悔が強くなり、それを何とか言い訳にするために、余計に覚悟というものを考えるようになる。
「あの時持てなかった覚悟」
 それは、トラウマとなって自分の中に残ってしまうに違いない。
 教職を追われた時もそうだった。
「二度と教師はできない」
 と思い、その時教師というものを顧みることができた。
 職に就いていると、なかなか自分を顧みることなどできない。顧みるということはある程度客観的な目を持たないと、できることではないからだ。
 何が一番悪かったのかというと、たぶん、
「自分と生徒たちを平等に見ることができなかったことだ」
 と思うようになった。
 確かに教育者と生徒では、ある程度、お互いに尊厳は必要だ。教えるもの、教えられるものという垣根がなければ、成立しない人間関係が先生と生徒の関係だからだ。
 しかし、先生と言っても聖人君子ではない。肉も食べれば女も抱く、当たり前のことである。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次