意識が時間を左右する
彼女はビックリするわけでもなく、すぐに正面を見て歩き始めた。そして、この店に入ってこようというのか、すぐ下から通路の影に消えた。まもなくして入り口の自動ドアが開いて、果たしてそこに姿を現したのは、今下にいた彼女だった。店内を見渡していたようだが、矢吹に気付いて近づいてきた。そして、矢吹の前に唐突に立った。
「こちら、よろしいですか?」
と彼女は言った。
「いいですよ」
と答えた矢吹は店内を再度見渡したが、他に空いている席は結構あった。
にも関わらずわざわざ自分のところに来たというのは、何か理由があるのだろうか。矢吹は彼女の顔を見て自分の中の記憶を呼び起こそうとしたが無理だった。
元々人の顔を覚えるのは苦手だったが、それでも思い出そうとしたのは、彼女の雰囲気に、
――どこかで会ったことがあったような気がする――
という予感めいたものを感じたからだ。
覚えられないという自覚があるので、確信というのはありえない。それなのに気になってしまうのは、本当にどこかで会ったのかも知れないという思いが強かったからなのかも知れない。
矢吹は仕事上、若い人と話もするが、それはあくまでも仕事上のことで、仕事以外で若い人と話をするということは今では皆無に近かった。
仕事においても、最近では同年代か、それ以上の相手の人が中心の取材が多いので、余計に若い人を前にすると、何を話していいのか分からない。仕事であれば、相手のことを事前に調べているので、どういう会話になるかなど、ある程度は予想できるというものだ。しかし、唐突に話しかけられたのであれば、シチュエーションなどまったく関係なく、戸惑うだけである。どうしていいのか分からなくなっていた。
彼女は矢吹の前の席に腰かけた。それを見たウエイトレスの女性が水を持ってやってきて、注文を聞いた。
「じゃあ、同じものを」
と彼女は、矢吹の顔を凝視しながら、そう言った。
その顔には笑みすら浮かんでいて、矢吹は一瞬ゾッとしたのを覚えている。
――ヘビに睨まれたカエルって、こんな感じなのかな?
と思うと、背筋に気持ちの悪い汗が滲んでいるのを感じた。
今まで掛かったことがなかった金縛りに、今掛かっているという感覚である。彼女は目の前に置かれたコップの水を半分ほど飲み干すと、意を決したかのように話し始めた。
「私、坂田綾香って言います。よろしくね」
と、相変わらずの目力で凝視してくる。
彼女にある目力というのは、大きな目で見つめられて、吸い込まれるような雰囲気ではない。目は比較的細い感じで、吸い込まれるというよりも、見つめられるとその目から視線を逸らすことができないという気持ちだ。きっと、彼女に見つめられるとどこにいてもすぐに見つかってしまうような気がする。いわゆるロックオンされてしまったという感じだと言えばいいだろうか。
「僕は矢吹次郎と言いますが、どこかでお会いしたことありましたか?」
というと、
「いいえ、初めてだと思います」
「こんな老けたおじさんに話しかけてくるんだから、知っている人なのかと思いましたよ」
というと、
「私はおじさんが好きですからね」
と言って不敵に笑った。
その笑みは妖艶にも見えたが、別に誘っているようには思えなかった。それは彼女のまだあどけなさの残る顔には似合わないはずの妖艶さに、違和感がなかったからなのかも知れない。
矢吹は苦笑いを浮かべたが、自分には苦笑いは似合わないことを自覚していたので、すぐに真顔に戻った。それを相手が気付いたのかどうか分からなかったが、綾香の視線は相変わらず矢吹を見つめている。
「さっき、私が商店街の通路を見ている時に目が合いましたよね?」
「ええ」
「あの時から私に興味を持ったんですか?」
「いいえ、実は私はあなたがどこの誰なのか知っているんですよ」
その言葉は矢吹を驚かせたが、すぐに自分が綾香を初めて見たのではないような気がしたのを思い出し、それほどの驚きを示さなかった。
「落ち着いていらっしゃるんですね?」
それが、あまり驚いていない矢吹に対して言った言葉なのか、それとも全体的な雰囲気から感じたことから出た言葉なのか、すぐには分からなかった矢吹だった。
「落ち着いているというのは、年齢的にそう見えるだけなのかも知れませんよ」
と、矢吹はあくまでも相手との年齢的な違いを絶えず言葉に込めることで、相手にどういう意図があるのかを探っているつもりだった。
「だから、おじさんが好きなんです」
年齢的な意識を過剰なまでに持っていたその時の矢吹を嘲笑うかのように綾香はそう答えた。
それは偏ってしまいそうな話を偏らないように制御しているかのようで、矢吹は綾香が巧みに誘導しているようで、
――落ち着いているのは、あなたの方ですよ――
と、心の中で呟いていた。
「おじさんが好きと言っても、すべてのおじさんが好きだというわけではないでしょう?」
すべてのおじさんが好きだというよりも、どうせなら、
「あなたのようなおじさんが好き」
と言われた方が嬉しいのは、矢吹だけではないだろう。
「もちろん、そうですよ。私が好きなおじさんのパターンは決まっていますからね。誰でもいいというわけではありません」
「じゃあ、同年代や、少し年上の男性はどうなんですか?」
と聞くと、
「私は今、女子大の一年生なんですけど、まだ未成年なんです。もうすぐ大人の仲間入りだという意識が芽生えてから、おじさんへの意識が生まれてきました。それまでは自分よりも五つ以上年上の男性は、恋愛対象としてはまったく見ていなかったんです」
「それはそうでしょうね。おじさんが好きだという女性を私も何人か見てきましたけど、私が知っている人も皆、最初からおじさんが好きだったわけではなく、ある程度の年齢に達してからおじさんが好きになったということなんです。もちろん、きっかけは人それぞれなので、年齢的にも個人差はありますけどね」
と矢吹は答えた。
「おじさんに対して、憧れのようなものを持っているんです。自分にない感覚や感性を持っているところにも感心しますし、憧れというよりも、尊敬と言った方がいいかも知れませんね」
矢吹は自分が教師をしていた時のことを思い出した。学校で女生徒が自分を見る目に憧れを感じたことが何度かあったが、
「生徒とは恋愛できない」
というジレンマに襲われなかったと言えばウソになる。
むしろ、そのジレンマに襲われたことが、最初に教師というものに対して感じた理不尽さだったと言っても過言ではないだろう。
――いくら教師と生徒であっても、その前に男と女なのだから、一緒にいれば憧れから恋愛感情になったとしても、それは仕方がないんじゃないか?
という思いだった。
矢吹は教員時代、好きになった女の子がいた。彼女も矢吹を意識していた。それは視線でよく分かったのだ。
――ひょっとすると、相手の視線に気づいたから、俺も相手を好きになったのかも知れない――
という思いに駆られたが、それもウソではないだろう。
「好きになられたから好きになる」
という考えも、恋愛では普通にあること、それをいい悪いという尺度で図ることはできないと思っていた。
作品名:意識が時間を左右する 作家名:森本晃次