粧説帝国銀行事件
スラン
〈ダイイチビル〉の六階にまで上がると窓に夜の皇居が一望できた。一望できてしまうことに愕然とした。自分がそれを見ていることに恐怖すら覚える。
東京のド真ん中に濠(ほり)で囲まれた広大な森。それは江戸の時代、徳川の城としてあったものだ。かつて城塞だった名残が、あちらこちらに点在している。ちょんまげに裃(かみしも)の服の侍(さむらい)が刀を研いでいそうな櫓(やぐら)に、忍者がへばりついていそうな石垣。
それらが迷路を成すようにして、森の中に配置されてる。その奥に、神社の拝殿のようなものがぐるぐると棟を連ねて建つのが見えた。今は〈人間〉となられたお方が住む館(やかた)に違いない。
つまり、あれこそが皇居だと、見たことはないが見てわかった。見てわかったが、しかしほんとは空飛ぶ戦艦でも造るドックなのじゃないかというほどでかい。そいつをこの窓は、上から見下ろせてしまっている。もしもここにスコープ付きのライフルを置いて何日か張り込めば、〈そのお方〉を狙撃するのも容易であろうというほどの距離で。
嘘だろ、という言葉しか頭に思い浮かばなかった。これを自分が見ていることに、愕然とする思いだった。愕然を通り越して慄然とし、蒼然とする思いだった。
そして国会議事堂も見える。濠を挟んで窓の左手に日比谷公園。その向こうが霞が関のビル群だが、その中でもひときわ高く、中に大仏でもあるようにして、国会の議事堂の舎が中央の尖塔を空にニョッキリと突き立てている。それもこの窓は、よく眺め見ることができた。
よく見え過ぎて、まるで巨大な犬小屋に見えた。アメリカ映画の〈キング・コング〉というやつでも中にいるのかあれは、という感じに見える。エジプトやマヤのピラミッドか、それ以前の超古代文明の遺跡が空をゴゴゴゴゴとやってきて、あそこにドドンと着陸したのかといった感じに見える。
そんなふうにしか見えない。この六階の窓からはすべて――GHQがこのビルを本部にした理由はこれじゃないのかと、眩暈を覚えながら感じた。古橋が立ちすくんでいると、
「眺めは気に入りましたか?」
と声がした。たどたどしいが日本語だ。部屋に置かれたひとつきりのデスクに着く男が発したものだった。
「ちょっとしたものでしょう。こちらへどうぞ。そこへお掛け願えますか」
デスクの向かいに置かれている椅子を示した。だが古橋は動かなかった。窓辺に立ったまま、
「イヤだと言ったら?」
「強制はできない」
男は言った。着ているのは米軍の軍服らしいが古橋にはどういう種類のものなのかはわからない。その頭上で大きなファンが回っている。
天井から吊り下げる式の扇風機だ。竹トンボを大きくしたようなものがクルクルと横に回転し、下に座る男に風を送っている。そのおかげで涼しい顔ができるのか、男は涼しい顔をして、
「ですがあなたを見込んでお呼びしたんですよ。名刺くらい受け取ってほしいな」
と言葉を続けて言った。デスクの上のペンなどまとめてある場所から何か取り上げ、手を伸ばして古橋に勧めた椅子の前に置く。小さな四角い紙だ。
「わたしの名刺です」
古橋が黙っていると、
「あなたは名刺一枚から、平沢貞通を捕まえた」
「おれじゃない。霧山警部補の仕事ですよ」
「かもしれないが、あなたはその名刺班に自(みずか)ら加わったんでしょう。百人の刑事の中でそんなのはあなたひとりだけだと聞いたが」
古橋は応えなかった。すると男は一本の瓶を取り出してデスクに置いた。
「年代物のバーボンがある。一杯どうです」
「酒は飲(や)らない」
と言った。さっき三杯目の酒を飲もうとした人間のセリフじゃないと自分で思うが、本当のことだ。普段は飲まない。しかし男は気にしたふうもなく二個のグラスに酒を注ぎ、ひとつを名刺の横に置いた。もう一杯を自分で取る。
「コーヒーがいいなら持ってこさせますが」
日本語式に『こーひー』と言った。『カウフイ』と聞こえる英語の発音でなく。
「ミスター・フルハシ」酒を飲んで、「シチベイ・フルハシ――それとも〈蝮(マムシ)の七(ナナ)〉とお呼びしましょうか。あなたに名刺や酒よりもいいものを差し上げたくて来てもらいました」
グラスを置いて古橋を見た。『なんだい』と古橋が言うまで今度は自分が黙っている気らしかった。古橋は言った。
「なんだい」
「野球は好きですか? アメリカでは、みんなが選手のサインを欲しがる。ベーブルースのサインボールは子供達の羨望の的です。それにクラーク・ゲーブルや、グレタ・ガルボやオーソン・ウェルズのサイン。ヴァン・ヴォクトのサイン入り『スラン』の小説本」
「知らないな」
「そうですか。わたしがあなたにあげたいのは、わたしのボスのサインですが。今の日本でたぶん誰もが欲しがるものと思いますよ。マッカーサー元帥(げんすい)閣下のサイン入りの重要文書――どうです、欲しくありませんか」