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粧説帝国銀行事件

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エレベーターでダイイチビルの六階に上がると窓に皇居が一望できた。一望できてしまうことに愕然とした。自分がそれを見ていることに恐怖すら覚える。
 
東京のド真ん中に濠で囲まれた広大な森。それは江戸の時代に徳川の城としてあったものだ。かつて城塞だった名残があちらこちらに点在している。お侍さんがいそうな櫓(やぐら)に、忍者がへばりついていそうな石垣。
 
それが昭和の今に窓の向こうにあるが、なんでこんなのが現代にあるのか。森の中に神社の拝殿のような建物が見えて、あれが今は〈人間〉となったかつての神が住まう館なのがわかる。
 
つまりあれこそが皇居だと。望遠鏡でひとつひとつの窓を覗けばどれかに〈そのお方〉の姿が見れるかもしれない。スコープ付きのライフルがあれば狙撃できるかもしれない。ここから距離は半キロほどで、間に何も遮蔽物はないのだから。
 
そんなところに自分がいて、この光景を前にしている。しかし冗談のような眺めで、現実と思えなかった。皇居の左手に道を挟んで霞が関のビル群があり、その向こうに国会議事堂の尖塔がニョッキリ突き出ているのも見えるが、それも悪い冗談のようだ。
 
が、もちろんこの窓からはこの光景が見えるのがわかるし、マッカーサーはこれを毎日見てるのがわかる。ここは天上の橋なのであり、今は彼こそが神なのだから――そう考えて身がすくむ思いでいると、
 
「眺めは気に入りましたか?」
 
と声がした。たどたどしいが日本語だ。部屋に置かれるひとつきりのデスクに着いた男が発したものだった。
 
「ちょっとしたものでしょう。こちらへどうぞ。そこへお掛け願えますか」
 
デスクの向かいに置かれている椅子を示した。だが古橋は動かなかった。窓辺に立つまま「いやと言ったら?」と返してやると、
 
「強制はできない」
 
男は言った。着ているのは軍服らしいが古橋にはどんな種類の軍服かわからない。その頭上で大きなファンが回っている。
 
天井から吊り下げる式の扇風機だ。竹トンボを大きくしたようなものがクルクル回り、下に座る男に風を送っている。そのおかげで涼しい顔ができるのか、男は涼しい顔をして、
 
「ですがあなたを見込んでお呼びしたんですよ。名刺くらい受け取ってほしいな」
 
言って小さな四角い紙を手を伸ばして古橋に勧めた椅子の前に置いた。
 
「わたしの名刺です」
 
古橋が黙っていると、
 
「あなたは名刺一枚から平沢貞通を捕まえた」
 
「おれじゃない。霧山警部補の仕事ですよ」
 
「かもしれないが、あなたはその名刺班に自(みずか)ら加わったんでしょう。百人の刑事の中でそんなのはあなたひとりだけと聞いたが」
 
古橋は答えなかった。おれと天城(あまぎ)のふたりだと言ってやりたい気もしたが、しかし天城は相棒だから自分について来たのでもある。黙っていると男は瓶を一本出して、
 
「年代物のバーボンがある。一杯どうです」
 
「酒は飲(や)らない」
 
と言った。さっき三杯目の酒を飲もうとした人間のセリフじゃないと自分で思うが、本当のことだ。普段は飲まない。しかし男は気にせぬ顔で二個のグラスに酒を注ぎ、ひとつを名刺の横に置いた。もうひとつを自分で取る。
 
「コーヒーがいいなら持ってこさせますが」
 
日本語式にこーひーと言った。カウフイと聞こえる英語の発音でなく。
 
「ミスター・フルハシ」酒を飲んで、「シチベイ・フルハシ――それとも蝮(マムシ)の七(ナナ)とお呼びしましょうか。あなたに名刺や酒よりもいいものを差し上げたくて来てもらいました」
 
グラスを置いて古橋を見た。古橋が何か言うまで今度は自分が黙っている気らしかった。古橋が「なんだい」と返してやると、
 
「野球は好きですか? アメリカではみんなが選手のサインを欲しがる。ベーブルースのサインボールは子供達の羨望の的です。それにグレタ・ガルボやオーソン・ウェルズのサイン。ヴァン・ヴォクトのサイン入りの『スラン』の本」
 
「知らないな」
 
「そうですか。わたしがあなたにあげたいのはわたしのボスのサインですが。今の日本でたぶん誰もが欲しがるものと思いますよ。マッカーサー元帥閣下の署名(サイン)入りの重要文書――どうです、欲しくありませんか」
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之