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粧説帝国銀行事件

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マリオン


 
古橋とうどんの丼を乗せたジープはタイムズ・スクエアを抜けた。銀座四丁目交差点。服部時計店と三越デパート、三愛とサッポロビールのビルに囲まれた四つ角は今はそう呼ばれている。
 
進駐軍の者らによってだ。三愛のビルには赤く大きなコカコーラの看板がある。銀座はギンザ・ストリートだが、晴海通りの今の名前はZアヴェニュー。ジープはそのZアヴェニューを日比谷の方角に走っていた。
 
日比谷の先は桜田門だ。警視庁のビルがある。そこに行こうとしているのかと古橋は思ったが、スーツの男は古橋をうどんの丼ごと後席に押し込むと自分は助手席に座ったきりで口を利かない。日本語は話せないようだから口の利きようがないのでもあろうが。
 
丼のつゆがこぼれなかったのは奇跡だ。古橋はうどんを啜りながら宵の街を眺めやった。ジープにはむろん屋根はなく席はオープンになっている。
 
5thストリートすなわち外堀通りとの交差――つまり数寄屋橋交差点まで来ると、十字路の向こうに建つ日本劇場のビルの壁に日本髪の女を描いた強力わかもとの看板が見える。なぜか知らぬが外人さんにはマリオンの名で呼ばれるらしい。
 
この三年で東京はわけのわからぬ光景の街になっていた。その巨大な〈マリオン〉の下に《命売ります》の看板を掲げて立つ男がいる。まだあんなのがいるんだな、と考えてから古橋は明日は自分も同じ身なのかもしれないと思い直した。
 
画家の平沢を逮捕した。よりにもよって文展無鑑査、皇太子殿下に絵を献上するほどの大画家と知りながら。それもましてや帝銀事件、あの毒殺の犯人として。
 
そんなキチガイ刑事どもはクビにすべきだと新聞に書き立てられた。ブン屋はみんな事件発生すぐからずっと米軍による毒の実験と決めつけて、それを匂わす記事を出してた。警視庁は必ずや真相を暴いてくれるでしょう。事件解決は近いとの感触を記者は得ています。犯人は戦時中に軍で毒を扱っていた人物。GHQは捜査の行方に強い関心を寄せているという話があり、事実としたら彼らはなぜ占領と関係のない一犯罪事件に対して――。
 
雑誌の文もラジオのニュースもすべてそんな調子であり、連中が事件についてどんな絵を描き大衆に見せようとしているかが明らかだった。間違いなくこうでしょうと言ってきたことといきなり違う。違い過ぎるものを見せられたら嘘だこんなのはデタラメだと吠え立てることになるのは当然。
 
しかしそれも詐欺の露見でようやく変わり始めたのに。シラベ(取調)をさせてくれたなら平沢を落とす自信はあった。他の人間ではダメだ。ああいうノラリクラリ野郎はてめえの足で調べ歩いてネタを集めた(刑事)が矛盾を突いていかない限り完落ちはさせられない。
 
霧山警部補以下のおれ達名刺班のデカでなければ決して――それは警察の人間ならわからなければいけないはずだ。はずだった。しかし警察の官僚は〈警察の官僚〉であって〈人間〉でない。手柄を横取りしようとする者らに何もかも持っていかれた。
 
その挙句が今日のパイだ。おれ達がポカをやったことにされ、平沢を拷問したことにまでされてしまっている。
 
これからどうなるのだろう。わかった顔で偉そうな口を叩く連中は皇太子への献上画というのが載った新聞を見て言ってるらしい。「この絵を見れば平沢さんがどんな人かわかりますね。その刑事らはみんな馘にすべきですよ」と。
 
そんなやつらがみな平沢を無実とし、あの事件はGHQの実験だと言っている。おれはもうあしたを失くし、探しに行かねばならない身だ。
 
しかしどうやらそのGHQの者と思しき人間が今、おれをこうしてクルマに乗せた。なんのつもりだ。おれになんの用というのか。
 
有楽町を抜けて日比谷。皇居の濠が見えてきた。その先にあるのが桜田門。
 
その向かいが警視庁のビルだ。やはりそこに向かってるのかと思ったが、《MP》のメットを被ったドライバーはそこでクルマの車線を変えた。右へ。うどんの丼が揺れ、つゆがこぼれそうになる。
 
「わわ」
 
と言った。それから思った。右へ曲がろうとしているのか? しかしそこは――。
 
Aアヴェニュー。つまり皇居正面の濠端となる大通りだ。明治の時代に建てられた帝国主義のビルが並ぶが、今はすべて接収されて進駐軍が日本占領政策のために使うものとなっている。
 
まさかそのひとつにおれを連れてくつもりなのか。しかしどれに? 思ったところでやはりジープはその通りへの角を折れた。
 
折れたがしかし、濠端を10メートルも行かずに停まる。今度こそつゆがこぼれ落ちそうになったが古橋はまたどうにか押さえた。だいぶ嵩も減ってたのだがやはり奇跡という他にない。
 
それから目の前のものを見上げる。威圧的な外観のビルがそびえ建っていた。
 
今の日本で誰もがここにそれがあるのを知らぬ者のない建物だ。場所の間違いようもないから見間違えようがなかったが、
 
「ここ?」
 
と一応訊いてみた。スーツの男は何かひとこと短く答える。〈そうだ〉もしくは〈降りろ〉と言ったように感じたが、
 
「ここ?」
 
ともう一度訊いてみた。男は同じ言葉を返す。
 
「いや、そんな……」
 
と言った。ジープが停まった前に建つのは第一生命のビルだった。今はダイイチ・ビルと呼ばれ、ジェネラル・ヘッド・クォーターズ(最高司令官総司令部)の本部として使われている。
 
つまりこここそがGHQ。連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーの執務室が置かれる進駐軍の中枢だ。そこに自分とうどんの丼が連れて来られたのを古橋は知った。
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之