粧説帝国銀行事件
団扇
『皆さん! 皆さんは間違っています。平沢画伯は潔白が証明されたのがわからないのですか!』
家の前で弁護士達が声を嗄らして叫ぶ声が平沢のいる居間まで聞こえる。声を嗄らして叫んでいるが、叫ぶと石を投げられるので何か板を盾にして身を護っているらしい。それに石が当たるらしきバンバン鳴る音も聞こえるが、平沢が顔を出したら途端に石が飛んでくるので眼で確かめるわけにいかない。
窓ガラスはみんな割られてしまっていた。雨戸をすべて閉め切らねばならぬため、家の中は蒸し暑かった。妻のマサがこれ見よがしに団扇(うちわ)でパタパタ自分の顔をあおいでいる。
「あー暑い暑い」
と言った。七ヵ月ぶりに亭主が帰ってきたというのにつれない顔だ。
「北海道はさぞ暑さがしのぎやすかったでしょうねえ」
「まあな」
と返した。東京の中野の夜は蒸し暑く、平沢の気分もまた蒸れていた。パッカードは平沢と弁護士らを降ろした後、群衆に棒で殴られ足で蹴られてボコボコにされながら逃げ去っている。
石を投げた者達が本気で殺す気でいたらあの時平沢は殴り殺されていただろう。あるいは首に縄かけられて木の枝にでも吊るされてるか、死ぬまで石を投げられているかだ。
幸いにしてそこまでのことにならなかった。平沢は家に駆け込んで、窓に石を投げられるだけで済んでいる。
これまでのところ。「かまうこたァねえ、火ィつけて全部燃やしちゃおうぜ!」「そうだ! あの野郎は前に放火でも殺してるんだ!」なんて声も聞こえてくるが、それに対して、
『平沢画伯は日本画壇に確固たる地位を築いておられるそれは立派なお方なのです。そんな人が悪いことをするはずあると思いますか!』
と弁護士がまた叫ぶ声。途端に石がバンバンと板に当たる音がして、「見ろ、あいつも同罪だ! まとめて焼き殺すしかねえ!」「おう、そうだそうだ!」などと声が聞こえる。しかし口だけで、ほんとに火を放つ度胸を持つ人間もなさそうだった。
これまでのところ。しかし、
「どーすんのよ」とマサが言った。団扇をパタパタさせながら、「あなた、どうしてこの家(うち)に来んの。こういうことになるってのがわかんなかったの。まったくもう」
「ここはおれの家だ」
「へーえ、そうだったの? 居候にでもなろうっていう人かと思った」
「あのな」
「それとも、下宿人かしら。お金入れない人を置く余裕なんかないんだけど」
「金は入れたろう」
「いつのことよ。七ヵ月前。帝銀事件の二日後のこと。確かにもらいましたわねえ捌(はち)萬圓。拾萬圓持ってきたうちの捌萬をあたしにくれて、弐萬をあなたが取ったのよね。それで全部かと思っていたらもう捌萬を偽名で預金してたんですって? アラ、合計拾捌萬圓。帝銀で盗られた額と同じじゃないの。そりゃ新聞も書き立てるわねえ!」
「そのお金は……」
言ったところで、
『先生は春画をお描きになられたのです!』弁護士が群衆に叫ぶ声がまた壁越しに聞こえてきた。『わたくしにだけ先生は真実を話してくださいました。拾捌萬は春画を描いて得たお金だと。恥ずかしくて言えなかったが弁護士にだけ話すと言って打ち明けてくれたのです。だから先生は無実なのです!』
「そうなの?」
とマサ。平沢は『あの野郎』と思いながら、
「そんなわけないだろう。春画なんか佰圓にもなるもんか。あいつら何もわかっとらんのだ」
「そうよねえ。ってゆーか、あなたが描いたんじゃ壱圓にもならないんじゃない?」
グサッときた。もちろんそれが事実だった。さらにマサは続けて言う。
「あなたの絵を買う人は文展無鑑査の大家の絵ならなんでもいいっていう人でしょう。社長室の壁とかに高額(たか)い絵飾って人に見せたい人よね。そういう人がなんで春画に高いお金を出して買うわけ?」
「うるさい。だから春画など描いてないって言ってるだろう」
『わたしは先生のその絵を見ました!』と弁護士の声。『まさにウタマロ、いや至高の芸術作品そのものでした! しかし現代の日本で男と女がまぐわう絵はただ猥褻の烙印を捺されてしまうだけでしょう。だから先生は描いてないとお言い張りになられるのです。けれどわたしには本当のことを話してくれた。その絵も見せてくださったのです!』
『だったら俺にもその絵を見せろーっ!』
『いえ、ですからそれはですね、弁護士には守秘義務というものがありまして……』
「嘘をつくから突かれた時に答えることができなくなるのよ」マサは言った。「いつもあなたに言ってきたよね。あの弁護士はあなたと同じね。自分で自分をまずい立場に追い込んでる」
「なんだよ」と言った。「ああ? お前もおれが事件の犯人と思ってるのか」
「どうかしら。違うと言えるの?」
「違うと言えるよ。やってない。天に誓っておれは帝銀の犯人じゃない。完全に潔白だとお釈迦様に向かって言える」
平沢は言った。マサは団扇をパタパタさせて聞いていたが、
「ふうん。とにかく出てってくんない? ここをあなたの家と思わないでほしいんだけど」