小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

粧説帝国銀行事件

INDEX|49ページ/49ページ|

前のページ
 

蒲公英


 
2月3日、火曜日。伊豆の温泉旅館。宿の主人は予約の客が来たと聞いて玄関へ迎えに出ていった。時刻は午(ひる)を過ぎたところだ。
 
客はひとりで五十歳くらいの男。行李を背負い大きな鞄を手に提げていた。一見して行商人かと思うような大荷物だが、得意客の紹介で偉い画家の先生なのでよろしく頼むと言われて予約を受けた相手だ。絵描きなら絵の道具が詰まってるのだろうと察しをつけて頭を下げる。
 
「平沢先生でございますか。お待ちしておりました。このたびはどうも手前どもの宿にお越しくださいまして――」
 
歓迎の言葉を並べて言うと、客は笑顔で上がってきて宿帳に《平沢貞通》と名を記した。
 
女中に部屋へ通させて、しばらくするとその彼女が戻って来て言う。「今のお客様が良ければ話がしたいとのことですが」
 
「わたしとか? なんの話か言ってたか」
 
「いいえ。ただ話がしたいだけのような仰(おお)せでしたが」
 
「ふうん、画家だそうだからな。たぶん絵の話だろう」
 
言って出向いていくことにする。客のおしゃべりに付き合わされるのは別に珍しいことではないが、しかしあまり面倒なのや話がつまらなくても困るなと思いながら向かうと、進む先からラジオの音らしいものが聞こえてきた。
 
ラジオ? なんでそんなものがと思えばやはりその客の部屋だった。声をかけると「どうぞ」の返事。戸を開けるとさっき玄関で見た時は帽子を被っていた男が卓に置かれた機械にかがみ込んでいて、それが音の元とわかる。
 
やはりラジオのようだけれどもしかしいささか奇妙な物だ。おそらく旧い鉱石ラジオと呼ばれるもので、ラジオというより盆栽でもいじっているみたいに見える。
 
その機械から小さな樹が生えてるように見えるのだが、その樹のようなのがアンテナなのだ。棒を組んだ枠組に銅線がぐるぐる巻きに張ってあり、それが小さな樹のように見えて全体の大きさも盆栽くらい。
 
だから盆栽のように見えるが客はそれをあれこれいじって局を合わせようとしているらしい。しかしうまくいかないようで雑音ばかりザーザー出ている。
 
それが当然なのだろう。真空管を使うラジオに比べたらかなり小さく軽くもあろうがろくに電波を拾えぬし、局が合ってもひずんだ音しか鳴らさない。だからすたれたものであり、電源なしには聴こえないから旅に持ち歩く者などいない。
 
普通はだ。客は部屋の電灯から電球を抜き、ソケットに線を挿し込んで電気を取ってるようだった。天井から垂れ下がったコードが卓の機械に繋がり、音を鳴らしているのがわかる。
 
「すみませんが電気をお借りしています。あたしはラジオが好きでしてね」
 
コイルをいじりながら言った。どうにか局を合わせたようだがやはりひどい音質だ。
 
「いえ。結構でございますが、いつも旅行にラジオを持ってらっしゃるのですか」
 
「ええ。家にいる時は一日じゅうつけっぱなしで、聴きながら眠るような具合で」
 
「ははあ」
 
「コーヒーはいかがですか。いま沸いたところですが」
 
これも卓の上に置かれたガラス器具を示して言う。アルコールランプで淹れるコーヒー抽出器だとわかるが、こんなものまで旅に持って歩いてるのか。
 
確かに中の黒い液がごぼごぼと煮え、かぐわしい匂いを立てている。蒲公英(たんぽぽ)の根を煎ったような代用コーヒーでは出ない香りだ。
 
本物のコーヒーなんて戦後の今になかなか飲めるものではない。主人はいただきますと答えて相伴にあずかることにした。
 
窓に伊豆の海が見える。見えるといっても漁港が見えるだけだから景観でもなんでもないが、こんなものでも画家が描くと違うのだろうか。
 
そう考えて主人は言った。「先生はたいそう名のある方と伺いましたが、こちらにも絵をお描きに来られたので?」
 
「ええまあ」
 
「何か特にこの辺りでお描きになりたいものでもございますのでしょうか」
 
「いえ、別にそういうわけでは」
 
「今の季節は雪でも降れば景色も違って見えるのですがね」
 
「そうでしょうねえ」
 
「ここは海も見えますが、やはり太平洋側ですから。先週ちょっと降ったのですがあまり積もらずすぐにみんな消えてしまって」
 
「それは残念です」
 
と言った。わざわざ呼びつけた割には話に気が乗らぬようすで、主人の問いを生返事で受けながらコーヒーばかりすすっている。耳はラジオの音の方に注意が行っているようだった。
 
雑音ばかりでよく聞こえぬので余計にそうなのかもしれない。そんな調子でそれでもしばらく話(わ)を交わしたが、不意に客はこれも卓に置かれていた新聞を指して「ところで」と言った。
 
「あたしの顔が帝銀事件の犯人に似てると言われて、人にじろじろ見られて困ってるんですよ」
 
「は?」
 
と言った。客が示している箇所には新たにより細密に描かれたという犯人の似顔絵が載っている。目撃者らの言(げん)によれば前に世に出たのよりよく描けているものらしい。
 
主人はその画と客の顔を見比べた。言われてみればなるほどそっくりのようでもある。
 
それにこの話しぶりはどうだろう。気づかれる前に自分から言ってしまう方がいいとでもいう考えで先手を打ってきたみたいでないか。しかもなんだか顎を引いて上目遣いにこちらを見たり、妙な具合に口をねじらせていたりする。
 
どうにかして少しでも人相書きと違う顔に見せようとしてるみたいだ。この客はどうもいちいち変だ。そう思ったが、しかしまさか。
 
実のところこの商売では、強盗殺人の犯人などが潜伏場所に選んで泊られる話はよく聞く。だからここにもいつかとんでもないやつがというのは常に考えてきたことだったが、しかしまさか帝銀なんて。
 
あれは何やらの陰謀で、大量毒殺計画の実験という話もあるようじゃないか。そんな大物がなんでそこらのチンピラみたいな真似を。
 
そう思った。それに知らぬがこの人は、ずいぶん偉い画家という。それがなんで毒殺強盗? そう考えてそれは災難ですねえと言い、早く犯人が捕まるとよろしいですね、などと続けてお茶を濁した。
 
それとも、コーヒーを濁すとすべきか。ラジオは何か歌の番組を流していたが、この雑音とひずみでは耳障りなだけだった。
 
 
 
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之