粧説帝国銀行事件
フィラデルフィア
捜査本部は解毒剤の線を早々に見切っていたが、報道各社はそれを知らない。いや、情報はダダ洩れだったがブン屋が望む話ではない。事件を米軍の実験とするにはそれがいちばんいいのだから、解毒剤がある話をデッチ上げて大衆に見せる。
それがジャーナリズムであり、そうでないのはジャーナリズムでない。事実で新聞は売れないしラジオのニュースも聴かれぬのだから、すべてを嘘で塗り固めたものが彼らには真実となる。
そしてまた外国の記者だ。日本の新聞が書けないことも自由に書けて嘘のつき放題だから、旧日本軍の解毒剤が米軍の手に渡った事実がある話を作って母国に送る。それがその地でまた膨らまされ、日本に逆流することになる。
松井蔚は軍医時代に毒で十人を殺していた。
そんな話を誰かが拵(こしら)え上げて書くと、別の記者が百人殺した話に変えて、また別のが二百殺した話に変える。三日もすると世界じゅうありとあらゆる新聞・ラジオが松井は毒で三千くらい殺したように報道するのだ。解毒剤があるからできた帝銀と同じやり方で、軍の特務機関による暗殺法の研究だったと。
「本当なのか」
と村松は取調室で松井博士に強く迫った。松井は別に逮捕されているわけではないが、警察の眼に人は布団だ。叩けば埃(ほこり)が出るに決まってるものであり、それが罪に問えるようなら検察に送って自分の手柄。
というのが警察官が市民を見る眼で、取調室で向かい合ったりしている時はなおさらそうなる。新聞・ラジオもその男には完璧過ぎるアリバイがあるのが逆に怪しいと言っていて、戦時中に米軍がフィラデルフィアで行(おこな)った〈どこでもドア〉と呼ばれる実験の話をし、『だからおそらくそれによって仙台から東京まで一瞬に……』なんてことを語っている。松井は髪に長さがあるから犯人でないと警察はすぐに決めてしまったというがそれはどんなヘッポコ警部がそう決めたのだ、バカじゃないのかと言う者もいる。
『こんな事件をやる男なら一日で髪を伸ばすくらいできないわけないでしょう。むしろ犯人の証拠ですよ』
なんていうようなことも言ってる。甲斐係長が聞いて怒ってそうだったのかと叫びたて、フィラデルフィアのその話などむさぼり読むようなことにもなってる。
よって村松、すべて疑ってかかれと言われた。松井に不可能はないかもしれん。ブン屋に先を越される前に知ってることを引き出すのだ。
忘れるなよ。松井がホシでも裏にアメリカの闇の機関がいるのを。本当に突き止めねばならぬのはそれだ。お前がそれをやるのだ。
去年はロズウェルという所に宇宙人の乗り物が落ち、米軍がその死体を解剖してる話もある。きっとそれにも七三一が関わってるに違いあるまい。このままいくと宇宙人と戦争になってしまうかもしれない!
そうなればこの地球はおしまいだ! だから村松、お前がそれを止めるのだ! なんてことを甲斐に言われて村松は調べに臨(のぞ)んでいた。質問をぶつけるたびに松井から「一体なんの話ですか」と逆に訊かれることになるが構わずに、
「だからあなたは戦争中に外地で何千もの人を殺していたと言う者がいる。それは本当じゃないのですか」
「あのですねえ」
「あなたは遠く離れているふたつの場所に同時に居られると言う人もいる。それは本当じゃないのですか」
「ちょっと待ってくださいよ。今なんて言いました?」
「フフフ、芝居がお上手のようだな。しかし警察は騙せませんよ」
「って、いや……」
「あなたは髪の長さを自在に変えられると言う人もいる。それは本当じゃないのですか」
「いいかげんにしてくださいよ」
「とぼけるな!」
という調子に調べは続いた。一方で名刺捜査も続いており、交換名刺を一枚一枚繰り返し見せてはこれはどういう人かと尋ねる。松井は、
「だから全部が一度会ったきりの人でよく憶えてもないんですがね」
「そんなこと言いながら、犯人を知って隠してるんじゃないのか」
「そんなことはないですって」
「まあいい。嘘ならすぐにわかる。これはどういう人ですか」
「ひらさわ……なんて読むんだっけ。こんな名刺あったかな」
「ほう。この前もそう言ったが」
「ああいやいや、思い出した。北海道から帰る途中の青函連絡船で会った人だ。確か画家と言っていた」
「つまりそのように見せかけたアメリカのスパイなのですか」
「なんでわたしがそんなのと名刺を交わさなきゃいけないんです。平沢ナントカ。知りませんか」
「知りませんね。そんな絵描きは聞いたことない」
「本人は横山大観の一番弟子で日本一の画家になる者と言ってましたが」
「ほほう」
「いや、わたしも知らなかったし、カタリじゃないかという気もしたけど、一等船室のラウンジにいて向こうから話しかけてきたんです。コーヒーを一緒にどうかと誘ってね」
「コーヒー。飲んだわけですか」
「まあなんとなく。それで自分は大観をもう越えていて、今は皇太子殿下への献上画を持って東京に行くところとかなんとか言ってた」
「皇太子への献上画。それ本当の話ですか」
「そう言っていましたが、ほんとかどうかわかりません。本当に画家かどうかもね」
「なのに名刺を交わしたと?」
「まあなんとなく。とにかくただそれだけの人で、巡幸の仕事とも関係ないです」
「どうも話が疑わしいが」
「そりゃぼくのせいじゃないよ。あの男がなんか変な人だったんだ」
「顔はどうです。似顔絵と似ているとか」
「わからないな。まったく憶えてない」
「後で家を訪ねてきたとか、どこかで会ったということは」
「それもない」
「北海道の人なんですよね」
「そのはずですが、北海道のどこというのはわかりません」
「この前もあなたはそう言いましたが」
「そうでしょう? 何度訊かれても同じですよ」
「しかしねえ、大観の一番弟子に皇太子への献上画なんて。そんな話をあなたは聞いて信じたんですか」
「だから信じたわけじゃないと何度言ったらわかるんですか」
というようなやり取りが128の交換名刺すべてで為され繰り返される。その間も村松は松井の頭から目を離さず、育毛剤で伸ばした髪でないのかという疑いの眼を凝(こ)らしていた。
見ている間に3センチも毛が伸びるとか黒い毛が白くなることがあればこの男がやはり犯人ということだからだ。だがこの話はこの部屋から外に漏れず、マスコミが平沢の名を知ることもまだこの時はなかった。



