粧説帝国銀行事件
そうよ、会ってないのよ!と思った。だから父さんは犯人じゃない。あの拾萬はやはりどこかで悪いことをしたのかもだが、でも帝銀の犯人じゃない。12人を毒殺した男ということだけはない。
それはきっと松井という人のまわりにいる誰か。医学関係の人間であり、戦争中に人殺しの研究をしてた者なのよ。
それさえ確かなのならば、他はどうでもいいじゃないの。わたしにはどうでもいいじゃないの。犯人は松井の名刺を手に入れられるところにいた解毒剤を持ってる人間。重要なのはその一点ただひとつよ。
そうよ、そう!と瞭子は思った。エリーはまだ、
「ボクのまわりじゃみんなワスプのやりそうなことと言ってる。アイリッシュ(アイルランド系)とかギニー(ギリシャ系)とか、サクソン種でないのはみんなね。それにワスプの中にまで、自分達の中にいる悪いやつがやりそうなことと言うのがいるみたいだな」
などと話を続けているが、それもどうでもいいように感じた。
上の空に聞きながら「そう」と適当に相槌を打つ。そもそもがよくわからぬし、白人は全部同じに見える。
でもワスプ(WASP)とはかつて日本が鬼畜米英と呼んだ者達ということだろう。東南アジアを簒奪し、日本人を猿と呼んできた者らと。
ホワイト(白人)でアングロサクソンのプロテスタント(新教徒)。それはわかるが、その先はよくわからない。大体がそう単純でなく、事はややこしいものらしい。日本はそれを理解しないでワスプに対して戦争をやり、ワスプを憎む異人種も敵にまわして敗北した。
そういうものらしいけど、それもなんだかよくわからない。今になってラジオの中でわかったことを言う者達が何を言ってるかてんでわからず、彼らがみんな戦前に何もわかってなかったのと同じく今もなんにもわかってないのじゃないかという気にしかなれない。
アメリカはいい国なのかそれとも悪い国なのか。
それもわからないけれど、しかし今の自分にはやはり関係ないことと思った。
日本軍が青酸の解毒剤を作っていた話以外はどうでもいい。今はそうだと考えながらまた新聞の似顔絵を見る。不思議とあまりもう父に似てないように思えてきた。