粧説帝国銀行事件
滴
この事件は多くの奇怪で魔的な要素が世の興味をかき立てたが、中でも謎とされるのが犯人自身も毒を飲んでいる点だ。「このようにやれ」と言って手本を示し、先に薬液を飲んで見せる。荏原と椎名町の二店で人が従ったのもそれが理由のひとつと言えた。男がやって見せたからこれは飲んで大丈夫と皆が思ってしまったのだ。
なんらかの手品を使ったのは疑いないが、しかしどんな手品なのか。
そこが推理のしどころとして世の談義の的になったし、警察捜査本部にとっても頭を悩ます問題になった。ホシは殺した者達と同じ毒を飲みながらなぜ平気だったのか。
まず考えられたのは〈飲んだように見せて飲んでない〉という単純なものだ。しかし二店の者の多くが「湯呑から男の口に滴(しずく)が落ちるのを確かに見た」と語っており、事は決して単純ではない。
つまりこれは〈手品を使って別の無害な液を飲んだ〉と言い換えねばならぬわけだが、そんなことは可能なのか。
まあ不可能ではないだろう。世の中には十人の客の間近でコインやカードを出したり消したりして見せる手品師がいる。そんな者なら何かトリックを考えてやってのけるかもしれないが、しかしそれは間違いなく高度な技を要求されるものとなろう。捜査本部はそう考えてこれを可能性低しとした。
係長の甲斐がそう決めた。捜査会議で彼が言うには、
「この事件が米軍の実験なのは間違いない。これから何千というええじぇんとを使って世界の何万という場所で何億も殺す計画なのは間違いないのだ。しかし手品が難しくてはええじぇんとにやらせるのが大変だろう。それでは使える方法にならない。手品はちょっとした練習で誰でもできるようなものでなくてはいかんのだ。米軍の秘密機関は当然そう考えるから、この線はないと見てよかろう」
刑事のほぼ全員が「係長のおっしゃる通りです」と言って頷いた。
次に出たのは〈事前に解毒剤を飲んでいたので毒が毒にならなかった〉というもの。手品としては最も簡単・確実で危険が危なくないものと言え、事件が大量毒殺計画の実験ならばこれほど使える方法はないと思えた。甲斐もそう期待して方々へ刑事を走らせたが、しかしほどなく「見込みなし」の結論になる。
青酸に解毒剤がないわけではない。いくつか知られているのだがそのどれもが毒を以て毒を制すという言葉があるようにそれ自体が有毒で、事前に飲むなど到底考えられないものばかりということだった。そしてどれもが確かな効き目を保証するようなものでなく、青酸を飲んでしまった者にダメ元で与えてみればひょっとして効くかもしれないという程度の薬なのだと。
またどんなに研究しても事前に飲めて確実に効く解毒剤など開発できるわけがないというのが刑事の問いに学者が答えた言葉といった。映画や演劇にはたちまち毒を消してみせる魔法のような解毒剤が出てきて死にかけていた主人公が飲んですぐさま立ち上がり悪役を殴り倒したりするかもしれぬが、現実には青酸に限らずそのような薬はないし出来るわけない。
毒物学者はみんなそう言ったと聞いて甲斐も困った。事件後すぐに巷では「戦時に軍が青酸の解毒剤を開発していて犯人は事前にそれを」という噂が生まれて広まり、ラジオでも専門家とされる者らがみんなこの説を支持していたからてっきりそれに違いないと見込んでたのだが。
そこで甲斐は刑事達をそんな学者の許に遣って「あなたの話が本当ですよね」と問わせてみることにした。すると全員が話の途中で急用を思い出してどこかにいなくなってしまい、その後はデカの姿を見ると逃げるようになったとかいう。
それで甲斐もこの線は引っ込めざるを得なくなったがそうと知らない新聞・ラジオはいくらでもいるセンモンカにこれを唱え続けさせる。安全無害で効き目の確かな解毒剤を日本軍が開発していて米軍の手に渡った事実があれば陰謀説にはいちばん都合いいのだから当然だ。諦めきれずに学者を訪ねて「アナタの話が本当ですよね」と尋ね続ける刑事もまた多く残ることになった。
甲斐も捨てたくなさそうだったが三番目が〈油説〉だ。瓶の青酸水溶液には上に油が浮かべてあってホシ自身はそれをピペットで取って飲み、行員達には下の毒層を飲ませたというもの。
これは可能性低しとした〈手品を使って別の無害な液体を飲んだ〉の一法でもあるが、これだったら簡単で誰でもすぐできるだろう。しかし命懸けでもあるからまずは飲んでも死なずに済む猫いらずのようなものでも使って予行をやらねばならなかったのだ。荏原はそれだったのだ。これで説明がつくではないか。
ということに会議で決まった。係長で捜査の陣頭指揮を執る甲斐がそのように決めたのだ。エリーはこれに四番目の説を提示したわけだが、平沢瞭子以外に聞いた者がいないため世に知られず終わったのだった。