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粧説帝国銀行事件

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「あ、うん」と言った。それから英語で、「知ってるの?」
 
「知ってるさ。軍の中でも大ニュースだもの。PXで聞いてないの?」
 
「まあちょっとは」
 
「でしょ? 世界的ニュースらしいよ。どこの国の新聞にもこの犯人の顔が載ってて、セッシュー・ハヤカワと比べてどうとか……」
 
「そう」
 
応えながら息が苦しくなるのを覚えた。エリーは日本語は読めないのだから今は似顔絵をつっつくだけだが、次に言い出しはしないだろうか。
 
これは君のお父さんに似ているねと。そう言われたらどうする。なんと答えればいい? Yesと言うべきかNoと言うべきか。
 
わからなかった。それに似顔絵に添えられた語句について訊かれたらどうする。《シミ》に《傷痕?》とあるのだが、これは何かと尋ねられたら。
 
どう答える? わからなかった。だから訊かないでほしいと祈るしかなかった。記事に犯人は左の頬に目立つシミがふたつあり、顎に傷痕があるかもしれないとある。
 
頬のシミは男を見た多くが証言しているのに対し、顎の傷痕はふたりしかあったと言ってないのだそうだ。だから後者にハテナマークが付いてるのだが、特に最初の未遂である荏原の30人の中にあったと言う者はいないと。
 
記事にはそうある。そして瞭子の父親には左の頬に目立つシミがふたつあり、顎に今は傷痕があった。
 
今はあるけど去年の秋には無かった痕が。冬の初めに父はそこに傷を負ってしばらくのあいだ腫らしていたのだ。
 
それがいま痕になって残っている。二ヵ月前に出来たのだから、三ヵ月前の荏原の者が見ていないのは当然となる。そしてエリーはそれが生傷だった頃の父を知っていた。
 
そのエリーに〈キズアト〉の意味を訊かれたらどうする。どう答えればいい? 考えてからしかし英語でなんというのか自分は知らないのに気づいた。〈シミ〉も。だから答えようがなくもあるけど、エリーの眼にその似顔絵はどう見えているのか。
 
わからなかった。表情からは何も伺い知ることができない。
 
炬燵の反対側に入って読めもしない新聞を見ている。瞭子は胸が騒ぐのを感じながら部屋の隅にあるものを見た。
 
ボストンバッグだ。あの日に父が炭団を詰めて持ってきた大きなバッグ。
 
あの時一杯だったのが今はだいぶ萎んでいる。炭団など一週間でそんなに使うものでないのに。
 
あの十個の札束を思わずいられなかった。あれが本当は16あったのだとしたら? 姉の家で炭団をもらったというのは本当なのだろうが、新聞紙ででも金と毒の瓶など包んであのバッグの底に入れ、上に炭団を被せて持って帰ってきた。その後でブツを抜き取ればあのくらい萎むのではないか。
 
そんな気がしてならなかった。そして父は金屏風を描く話はどうしたのやら、今日もどこかに出掛けて戻ってきていない。
 
さらに松井蔚という男だ。記事には昨年春に北海道を巡り名刺を交わしてまわったとあるが、ならば父とも会っているのじゃないか。
 
いや、まさかと思うのだが、瞭子ら一家は去年の春まで北海道の礼文華という所にいた。洞爺湖(とうやこ)から西に20キロほどの内浦湾に面している海岸の町だ。前は東京の板橋にいたが、戦争でB-29が飛んでくるようになって疎開した。
 
終戦後もしばらくそこにいたのだが、徴兵されてた兄も戻ったし東京も落ち着いてきたというのでこの中野に土地を買い、家を建てて暮らそうとなって出てきたのが去年の春。
 
その博士が北海道を旅した頃だ。洞爺湖のあたりも寄ったようだから、父はそのとき会って名刺を交わしているのじゃないか。
 
そんな気がしてならなかった。何しろあの父のことだ。天皇巡幸の下見などという話を聞いたら絵の売り込みのチャンスと捉えて押しかけていくのはむしろありそう。そういう営業努力だけは人一倍で大家と呼ばれるようになったようなものなのだから。
 
いや、まさかとは思うけれど……そしてもう一枚の山口二郎という名前。それは架空の人物というが、姉の静香の嫁ぎ先が山口という家だった。姉は今では山口静香となっている。
 
いやいやこれもまさかという話でしかない。だが新聞にはそれで済まないこともまた書かれていた。
 
椎名町の翌日に換金された小切手には、犯人が裏書を求められて〈板橋三の三六六一〉と書いてるという。それは咄嗟にデタラメを書いたに違いないというが、記事は続けて犯人は最初三の二六と書いて後から線を足し、二の字を三にした形跡があると述べていた。だがどうしてそんなことをしたか理由がわからないとも……。
 
しかしそれは、と思った。わたしにはその理由がわかる。父さんがその犯人とするなら簡単に説明できる。だってその地番は――と、もはや絶望の思いで考えた時だ。エリーが炬燵の向かい側から「この犯人だけどさ」と言った。
 
「え?」
 
と言った。心臓がドキリと跳ねる。
 
「ぼくが思うに、こいつはきっと……」
 
じっと瞭子を見ながら続ける。心臓はドクドク波打って破裂しそうなほどに感じた。
 
エリーはそれから、
 
「ニンジャじゃないかな。ニンジャの修行に毒を毎日少しずつ舐めて体を馴らすというのがあるって知らない? それだよ。そいつはそれをやっていたから毒を飲んでも平気だった!」
 
言って〈どうだ〉という顔をした。
 
瞭子は指鉄砲を向けてバンと撃つ真似をした。エリーは「ウウウ」とうめきながら炬燵の向こう側に倒れた。
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之