粧説帝国銀行事件
スカー
月曜日はエリーが来る日だ。この月曜もやって来て〈家〉に入るなり英語で言った。
「家の工事始まったんだね」
「Yeah」
と答えた。エリーが言うのはもちろんこの掘っ立て小屋のことでなく外の建築中の家だ。夏からずっと止まっていた工事がまた始まって、大工さんが何人も寒空の下でトテカンやってる。
瞭子は壁のカレンダーを見た。今日は2月2日。
工事再開となったのは先週までは無かった金が出来たからだ。あれは前の水曜だったか、瞭子がこの小屋に帰ると母が「父さんに電報があった」と言ったのだった。
「なんの電報」と問い返すと、
「なんとかいう船会社の社長さんから。父さんが言ってたでしょう、拾萬圓の絵を描く仕事が入ったって。それで今日……」
言って見せてきた電報に《カネヨウイシタ トリニコイ》と書いてあった。発信人の名は《ハナダ ウゾウ》とあったが、
「どういう人?」
「知らない。船会社の社長としか」
「なんで電報なんか寄越すの」
「大金を用意したからじゃないの」
「まだ描いてない絵に拾萬圓? それを先払いするなんて話があるの?」
「変だとは思ったけど」
「父さんの絵でそんな値段になったのなんてこれまであった?」
「ないから変だとは思うんだけど」
と母は言った。もうこの時に瞭子は悪い予感がした。あの父のことだ。また何か良からぬことをやったのでないかと。
半月前にこの小屋を出てった兄のこともある。その時に言った。「親父のやつ、今度という今度は本気でヤバいことをやろうとしてるような気がする」と。もちろん親父のことだから失敗するに決まってるが、その時ここにいたくない。だから遠くに行くのだと。
「遠くってどこ」
訊いたら北海道と答えた。瞭子、お前も一緒に来ないか。こんな小屋にいるよりいいだろ。
と。しかし兄の話はただ〈気がする〉というだけのものだし、瞭子にはPXの仕事がある。そう答えるとそれ以上言わずひとりで出ていった。
――あの時勝也兄さんについて行くべきだったのだろうか。
電報を見た瞬間にその想いがよぎったが、いいや行っても同じだろうとあの時も考えたことをまた思う。父が今度こそ逃れようのないことをしでかして捕まれば、遠くへ行ったところで無駄だ。名前を変え身元を隠して生きでもせねばどうにもなるまい。
ずっと前からそれを恐れてきたのだから――自分の父がどんな人間なのか知った時からずっと。
特に放火で人死にが出た時からだ。幼い頃から瞭子は何度も家の引越しを経験してきた。理由はいつも同じだった。
火事だ。隣の家が放火とわかる火事で焼けて、こちらの家もいくらか焼ける。それで引越しとなるのだが、父はそのたび火災保険の金を受け取っていたという。
毎度犯行を疑われるが、父が名のある画家とわかるとすぐ放免。それで済んできていたが前の火事では焼死者が出た。
父は警察に連れて行かれ、今度こそおしまいだと瞭子は思った。これまでの放火のすべてが父の仕業だと暴かれて、自分に向かって天が落ちてくることになると。
父は高名な画家として多く収入を得ていたが、金はいつも足りなかった。稼ぐ以上に遣うからだ。
自分の身を飾るのに遣い、愛人を囲うために遣うけど、妻や我が子には遣わない。父が贅沢している横で自分ら三人兄妹は母の稼ぎで苦しい暮らしを強いられてきた。
火事で得られる保険金もすぐに全部消えるらしい。事業だのなんだのいった儲け話に父が乗り、失敗して終わったところで隣の家が放火で焼ける。
保険金はその補填にみんな充てられてしまうのだ。それというのも本業のはずの絵の方でサッパリ売れなくなっているから。若い頃には一枚に数萬圓の値が付いたこともあったそうだが瞭子はその時代を知らない。
父が売れたのは大正の世で、昭和になって自分が生まれた時にはもうその時代は終わっている。絵がダメだから別の道でなんとか大物になろうとしている父の姿しか瞭子は知らない。
儲け話に乗っていろいろ手を出してはしくじっている姿しか。欲をかき、嘘をつくから何をやってもうまくいかない。だから失敗するというのに反省というものを知らない。だがこの父に騙される者は常にいて、前の放火でも警察署にひと晩泊っただけで出てきた。隣の家の棺桶にすがり「なぜ死んでしまったんだーっ!」と泣き声を上げていたが、そのすぐ後でニンマリと笑った顔を瞭子は見ていた。
あれは人間の顔でなかった。蛇がもしも笑うならあのようにして笑うだろう。警察はこの男に何をやっても自分は罪に問われないという自信を植え付けたのでないのか。
そのとき瞭子は身が凍りつく思いをしながらそう感じた。今の世の中はインフレとやらで、絵などが売れる状況ではないと聞く。まして父の描く絵など、絵のわからない人間が後で十倍の値で売れるという欲にくらんで買うものでしかない。画商を通せば佰圓にもならないものを父からじかに百倍の値で。
瞭子はそんな実態を知ってた。そこに電報。まだ描いてもいない絵に拾萬の前渡金。
そんな話があってたまるか――そう考えたところにまた父が帰ってきて、札束をドサリと出して見せたのだった。
佰圓札百枚の束が十個で拾萬圓。瞭子がこれまで見たこともない大金だった。聞けば花田卯造というのは戦時中に船で儲けた海運会社の社長であり、この戦後の世の中でも進駐軍を相手にガッポリ稼いでるのだという。
その花田が金屏風の大きなやつを描いてくれと頼んできて、全額を前払いしてくれたのだ。すぐかからねばならんからこれから忙しくなるぞ。
言って父は十のうち八つの束を母に渡した。残りふたつは返さなければならない借金があるのと金?風の製作費だと言って自分が取った。
横で聞いていても怪しい話に思えた。父の絵柄は地味なもので華やかさなど微塵もない。その父に大金屏風。その全額を前渡しなんて。
そんな話はとても信じる気になれない。それとは別に気になることがあったので瞭子は訊いてみることにした。
「日米交歓展っていうのはどうなったの」
と。日本橋の三越デパートでその名前の展覧会が前の週から開かれていて、父も出展していたのだ。それで毎日出掛けていて、この日もその会場にずっといたはずだった。
父は開催前には言った。これでアメ公に認められればおれの絵が世界で売れると。だがその後は毎日難しい顔で帰ってきていて、この時の瞭子の問いにも「あれか。いや」と気のない返事をしただけだった。
そして翌日からもう三越に行かなくなり、代わりに金箔や高価な画材を大量に買い込んできた。どうやらほんとに金屏風を描く気らしいがしかしどこで描くのだろうと瞭子が思ったそのまた翌日、父の顔を描いたとしか思えぬような絵を新聞で見ることになる。
帝銀事件――椎名町の毒殺は新聞にそう書かれるようになったが、その犯人の似顔絵だ。その後も続けて同じものが毎日載るようになり、瞭子がいま炬燵の上に広げていたのもそれなのだが、
「テギーンジケーンドクサツハンニーン」とエリーが指差して言った。「デショ? コレネ」