粧説帝国銀行事件
巡幸
そのようにして二日目が終わり、三日目の28日水曜の朝。ここでようやく被害額の算定が出来た報せが捜査本部に届いた。
現金拾陸萬肆(よん)仟圓。それに壱萬漆仟の小切手が一枚見つからないが、これも盗られているとしたら合わせて拾捌萬壱仟と少しの額になる。
というのが出た数字だが、
「未換金の小切手ねえ」
捜査会議でその点を重視する者はいなかった。犯罪者は小切手になど手を出さない。金が欲しいなら現金があの店内にまだたくさんあったのだからそれを持ってけばいいのだし、銀行は怪しい小切手が持ち込まれれば疑って調べるものだろう。「こちらで少しお待ちください」なんて言われて奥の部屋に通されて、警察が来て御用となるのはよほどの間抜けでなければわかりそうな話だ。
だからホシがそれも盗ってて後で換金するなんて有り得ないと皆が思った。それでも一応手配がされたしばらく後、板橋の件が飛び込んできて「にゃにい?」となり、目白署がグラグラ揺れる始末になる。
「昨日のうちにその小切手のことだけでも先に教えてくれていたなら」
と警察が新聞の記者を集めて言う一方で銀行側は、
「いや、話したが警察は聞かずに『そんなのいいから早く計算しろ』とせっつくばかりだった」
と言うことになる。警察は「銀行は嘘ついてるし言ってくれれば手配が間に合ったはず」と言い、銀行は「どっちにしても無理だったろう」と言って、新聞やラジオのニュースが、
「警察が正しい。銀行は告げてないだろうし犯人はもう捕まっているはずだ」
と述べ立てることになるが、これが彼らマスコミがジャーナリズムと呼ぶものである。
ともかく次に仙台の松井蔚という男だ。東京に着いて警視庁のビルに現れたその人は髪の毛が黒くフサフサしていた。ホシの頭は白髪混じりの丸刈りだったというのだから別人とわかるし、似顔絵にも似ていない。
それでも関与を疑って締め上げることになるのだが、その前にまず問題の名刺だ。松井は事件で使われたのは去年の春に自分が作った百枚のどれかだろうと言い、その残りであるという何枚かの名刺を出した。
なるほど荏原の遺留品とそっくり同じように見えた。その両者をカメラで撮ってネガを重ねて顕微鏡で見ると、像は完全に一致した。わざわざ偽造するものでないしやろうとしても難しいはずで、本物に違いなかろうと鑑定される。
仙台に行った早田刑事を印刷所にあたらせると、作った者がその名刺を憶えてもいた。版を組むとき蔚の活字が無かったので草冠と尉の字を合わせて刷ったというのだ。版はバラしてしまったので完全に同じものをまた作るのはもう無理で、どうしても文字の配置に細かなズレが出るだろうとも言われる。
よってますます本物なのが明確となった。荏原の名刺はその未遂の半年前に松井が配った九十何枚かの一枚なのだ。
捜査本部は色めきたった。しかしその90を誰と誰にやったかなんて全部わかるものだろうか。
訊くと松井は「大体わかります」と答えた。この名刺は特別な仕事のためにあつらえたもので交換先を帳に付けていましたから。その帳面も持ってきたのでこれを見ればいいのです。
「ははあ。特別な仕事というとどんな」
と調べにあたることになった村松警部補が尋ねると、
「陛下の巡幸(じゅんこう)はご存知ですね。去年の夏に東北と北海道をやったんですが、私は防疫技官としてコースの下見を任じられていました。それで春に各地をまわって、人と会って名刺を交わしたりもした。この名刺はそのために刷ったものでしたから、交換先はほとんどがその仕事の関係なのです」
「なんですって!」
村松は言った。昭和天皇が戦後の日本各地を巡って民と触れ合う地方巡幸というものがこの二年前――終戦の半年後から行われていた。国を挙げての数年がかりの大事業だが、松井がその一端を担った者なら名刺の交換先を帳に付けていた話に納得がいく。
むろん裏が取られたが、厚生省に問い合わせて来た返答は「確かに松井はその任にあった」というものだった。いよいよこの名刺からホシがアッサリ割れる望みが高くなったことになる。交換相手の中に似顔絵とそっくりのやつがもしいれば、もうほとんどそれで決まりだ。
そいつを捕らえて18個の札束がもしドサドサと出てくるようなら完全に決まりではないか。村松は松井が出した帳面と名刺の束を検めてみた。交換名刺は128枚あった。
「90より多いのは、私の一枚を何人かと交わしたものが結構あるからです」
「なるほど」
言って村松はその一枚一枚について「この人物は何者か」と松井に問うていくことになる。多くが県の衛生部長といった者だが、しかしいくつかようすの違う名刺も中に交じっていた。
たとえば《日本テンペラ画会会長 平沢大璋》とあるようなのが。村松はなんだこれはという顔をして一応のように尋ねて言った。
「ひらさわ……なんと読むのかな。これはどういう人ですか」