粧説帝国銀行事件
饂飩
夜は若く、彼も若かった。夜の気分は甘いがしかし彼の気分は苦かった。ワッパ(手錠)を掛けて北海道から連れてきた男がとうとう起訴されず、パイ(釈放)になったのが正午のことだ。それから半日、ずっと気分が苦かった。
東京は9月である。夜もひと月前ほど蒸し暑くない。日が暮れたいま露店の椅子に腰を据え、風を涼しく感じながら普段は飲まない酒を飲んでる。干したコップを卓に置いて「お代わりをくれ」と店主に言ったが、
「そのくらいにしといた方がいいでしょう」
「まだ二杯しか飲んでない」
「二杯で充分ですよ。それ以上は目が潰れるかもですよ」
「……」
睨みつけてやると、
「わかってくださいよ。ウチは別に酒を飲ます店じゃない。うどんを食わすとこなんですから」
「じゃあ、うどん」
古橋(ふるはし)は言った。デカ(刑事)になってからずっと、麺類を口にしたことはない。それは長シャリというものであり、事件捜査を長引かせるものだからだ。食ってるところに事件発生の呼び出しを受けたら、丼を置いてすぐゲンジョウ(現場)に行かねばならない。それが仕事だが戻ってきた時その麺は戦時中の水団(すいとん)よりひどい食い物になってるだろう。だから蕎麦(そば)だの饂飩(うどん)だのは食べないと決めた。
これまでは。けれどかまうものかと思った。どうせこれから先にデカの仕事などおれにはもうないかもしれない。ならばゲンを担ぐのになんの意味があるというのか。
「あいよ。うどん一丁ね」
言って店主はうどんの玉を鍋に入れてゆがき始めた。それから「一緒にタマゴはどうです」と訊(き)く。
張られた札に眼を走らすと、うどん一杯伍圓に対して玉子一個が陸(ろく)圓とあった。うどんよりタマゴの方が高いらしい。
「いいよ別に」
古橋は言い、振り返って通りを眺めた。路面電車がチンチンと警笛を鳴らし過ぎていくが、車体後ろのバンパーに進駐軍のGI(兵士)が立ち窓の枠に掴まっている。タダ乗りだろうが道行く者は誰も咎めたりしない。
見慣れた光景だからだろう。今の日本は日本であって日本でない。看板はみな英語で書かれ、日本語のそれの上に掲げられてる。古橋は昼に誰かが今日で日本が敗けてから三年になると言ったのを思い出した。
ポツダム宣言受諾はあの8月の14日だが、日本人には翌15日が終戦の日だ。しかし正式な敗北は降伏文書に調印した9月2日とされている。
三年前の今日。進駐軍の占領が本格的に始まったのもそれからだった。そして今も日本は敗けた相手の支配下にあり、古橋も今日に敗れた人間となった。
――いいや、おれは負けてない。降伏したわけじゃない。
そうは思うが、どうすればいいのか。この事件は米軍の秘密機関の実験ゆえに解決不能。検察までがそんな結論を出してしまったからにはもう……。
「うどんお待ち」
丼が卓に置かれる音とともに声がした。古橋は「どうも」と言って向き直った。
箸を取る。ソバならばデカになる前によく食ったが、うどんというのを食べてみるのは初めてだった。これがうどんか。ずいぶんと太いもんだなと思いながら箸でつまんで、まずひとくち食べようとする。
その時だった。
「ミスタフルハシ?」
背後で声がするのが聞こえた。英語らしい。外人さんがいつの間にかすぐ後ろに立ったらしいなと思ったが、気にしないでそのまま麺を口に入れる。
そこに「ヘイ」とまた声がして、背をドンと叩かれた。熱いうどんをすすろうとしてたとこだからたまらない。
古橋はむせてせき込んだ。振り返ると男がひとり困ったような顔で立ってる。
白人だ。涼しくなり始めたといってもほんの少しでしかない時節にスーツにネクタイ姿。
その後ろに一台のジープ。進駐軍のミリタリー・ポリス(憲兵)だろう。運転席に《MP》と書いたヘルメットを被る軍服の男が着いてる。
「なんだ?」
と古橋は丼と箸を手にしたまま言った。スーツの男はペラペラペラと何か言ったが古橋にわかるはずもない。
そこにうどん屋の主人が、「ミスターふぐ刺しとか言ってるみたいですけど」
「おれは食ってるとこだと言え」
「知りませんよそんなもの」
「ミスタフルハシ?」男はまた言う。「シチベ・フルハシ・デスネ・アナタ?」
〈あなたは古橋七兵衛(しちべえ)ですね?〉。そう言ったのがようやくわかるが、うどん屋が、
「お客さん何か悪いことしたんじゃないですか」
「だからおれは食ってるとこだ」
箸と丼を持ったまま男を睨みつける。男はスーツの内側に手を突っ込んだ。進駐軍の人間はそこにコルトのなんとかいうでかい拳銃を差していて、何かといえば抜いて突きつけられると聞いたことがある。
そして時にはぶっぱなされると。だからひょっとしてそれかと思ったが、違った。男が取り出したのは紙幣を束ねてクリップで留めたものだった。
一枚を抜いてうどん屋の卓に置く。聖徳太子の佰圓札だ。そうして男は店の主人に何か言った。
なんと言ったかはわからない。だがなんと言ったのかなんとなくだがわかる気がした。うどん屋もまた男の言葉を理解したように古橋に見えた。
〈この丼をこの客ごともらっていくぞ。これで足りるな〉と言ったのだろうと。もちろん足りるに決まっていた。