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粧説帝国銀行事件

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兢々


 
東京の池袋から北へふた駅のところにあるのが板橋という町である。この日の午後2時40分頃、そこにある安田銀行板橋支店がひとりの奇妙な客を迎えた。
 
閉店間際の忙しい時間だったがその男は入ってくるなり店の者達の注意を引いた。あんな事件が昨日にあった後だけに皆が「まさかとは思うが」と言いながらその日の仕事をしている。そこに怪しげな客が来れば「もしや」となって当然だった。
 
本店からも朝から15分置きに「今日にもその犯人がウチの支店に来るかもしれない。薬を飲めと言う者が来ても従ぬように」という電話が掛かってくる。支店長はそのたびに「飲まないから大丈夫です」と答えるのだが相手は信用できない声で、
 
『いや犯人は腕章を着けて、名刺を出してくるんだよ』
 
「飲まないから大丈夫です」
 
『どんな手品か知らないが、先に自分が薬を飲んで見せるんだよ』
 
「それは手品とわかっています」
 
『そんな男が来ても信用してはいかん。薬を飲んじゃいけないよ』
 
「飲みませんから」
 
『君は何もわかってない! 来たら誰でも毒を飲むに決まってる!』
 
というような応対に大体14分ほどかかり、やっと終わった1分後にまた電話が掛かってくる。その繰り返しで支店長はヘトヘトに疲れていたが、閉店が近づいてきたその時間、部下がやって来て「どうも妙な客が来ました」と言うのにゲンナリ顔で「今度は一体なんだよ」と返した。
 
「いえ、まさかとは思うのですが昨日の件もあることですし」
 
「あのなあ」
 
と言ったけれども渋々立って店を見に行く。するとなるほど見るからに不審な男がロビーにいた。
 
妙というのはその身なりだ。この真冬に白い夏物の帽子を被りサングラスを掛けている。どちらもそこらの安物屋でさっき買ったような新品に見えた。
 
もうこれだけで怪しいが、オーバーコートの襟を立ててる。例の犯人はどっちかの頬にシミだかアザがあると聞いたがちょうどそこを隠すかのように。
 
支店長は言った。「怪しいな」
 
「ねえ。どう見ても変装でしょう」
 
男はカウンターにもたれ、落ち着きなげに足踏みしながら周囲を気にするようにしていた。身長は160センチ前後で歳は50歳ほどに見える。
 
例の犯人も160で50くらいという話だった。
 
「うーん」
 
と言ったその時だ。男が視線に気づいたようにこちらを見た。〈怪しい者ではありませんヨ〉といった調子に笑って首を頷かせてくる。
 
こちらも笑い返してからサッと首を引っ込ませた。
 
ヒソヒソ声で、
 
「なんだなんだ。怪しいなんてもんじゃないぞ」
 
「そうでしょう。どうしましょう。どうしましょうか」
 
「どうしましょって、どうするんだ。名刺を出してきたりしたのか」
 
「いえ、それが小切手なんです」
 
「小切手?」
 
「ええ、換金を頼むと言って。ところが名前だけしか書いていませんでした」
 
「うん?」と言うと、
 
「裏書ですよ。住所氏名を書いていないといけないもんでしょ。それが名だけで住所が書いてなかったんです」
 
「それでどうした」
 
「『住所を』と言って戻しました。そしたら書いて出してきました。これです」
 
と小切手を見せられる。裏になるほど《板橋三の三六六一 後藤豊治》と認(したた)めてあった。住所と名ではペンとインクが違っており、筆跡も違うように見える。
 
「名前の方は元から書いてあったんだな」
 
「そうなんです。どうしましょう」
 
「どうするって……」
 
表側を返してみた。額面は《一万七千四百五十円》となっている。
 
金壱萬漆(なな)仟圓といえば金壱萬漆仟圓だ。自分の給料三ヵ月分ほどになってそれはこの銀行の金だ。怪しい者に簡単に出していいような額ではない。
 
けれども、
 
「出すしかないんじゃないのか」
 
言ったら部下はホッとしたような顔になった。
 
「そうですよねえ」
 
と笑って言う。見れば同じ顔した部下が他に何人も自分に向かいウンウンと頷いていた。
 
それで気づいた。そうだ、と思う。あの男はコートの下に機関銃か爆弾でも持っていて、断ればダダダダダのドッカーンということになりはせぬかと皆が兢々(きょうきょう)としてたのだろう。自分に伺いを立てには来たが、もしも「金を出してはならぬ。例の犯人でないかどうか確かめろ」なんて言われたらどうしようとビクついていたのだ。
 
それが普通の人間であり当然の反応なのだ。まずは自分を大事にすべきものであり命あっての物種なのだ。支店長も「そうだ」と言って頷くと、部下のひとりが窓口の女子行員の許に指示を伝えに行った。
 
聞いた彼女もホッとした顔でこちらに頷いて見せ、「後藤さーん」と裏書の名前を呼んだ。
 
〈後藤さん〉が立っている場所は彼女のすぐ近くだ。しかし自分が呼ばれたことに気づくようすはまったくなかった。
 
うつむき加減に左右を見ながら足踏みしているままだ。窓口の子はまた呼んだ。
 
「後藤さーん、後藤豊治さーん」
 
それでも気づくようすはない。呼ぶのではなく間近から「後藤さん?」と声をかけて初めてハッとした顔になる。
 
「はい」と応えて分厚い札束を受け取った。佰圓札174枚に伍拾圓札1枚の計175枚のはずだが、ろくに見もせずコートのポケットに突っ込んで足早に店を出て行く。
 
緊張の糸がほどけたことで一同はくたくたとなった。
 
顔を見合わせて笑い合ったが決して彼らを責めてはいけない。人は死んだら死ぬのだから彼らのようにするのがまともで、ダダダダダのドッカーンを案じない方がおかしいのだ。
 
客の中にも固唾(かたず)を飲んでたらしい者がいたが、皆が安堵の顔で出てった。そして閉店となるのだが、「待てよ」とひとりが言い出したのはしばらく経ってからのことだ。
 
「さっきの小切手ですが、あの裏書の住所は変じゃありませんか」
 
「ん? そりゃどういうことだ」
 
「ほらこれ。《三の三六六一》とあるけど四桁もある地番ってあります?」
 
「あ……そう言えば変かもな」
 
地図を出して調べてみると、板橋の三丁目にそんな地所は見つからない。三桁止まりで四桁の場所がそもそも無いのだ。
 
「つまりこいつは住所をと言われて書いたデタラメの番地だってことか」
 
「でしょう。それに書くとこを見てたんですがあの時もちょっと変でした。後から書き直していたような……」
 
「え? どういうこったそりゃあ」
 
「ええとこれかな。このふたつめの三がちょっとおかしく見えませんか。最初二と書いたのに後から線を足した感じ。三の二六と書いた後で三に変えてる……」
 
「なんでそんなことを」
 
「なんでと言われても困るけど、そんなふうに見えたんですよ」
 
「とにかく警察に通報だ」
 
支店長以下数人で最寄りの警察署に駆け込んだ。そして事情を話したが前日の件のタレコミは多く、「自分が犯人だ。自首する」なんてやつまでいる状況であまり関心を持たれなかった。椎名町の被害額はまだ算定の途中であり、後藤豊治と裏書された未換金の小切手が無くなっているのをこの時点で警察は知らない。
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之