粧説帝国銀行事件
滲
捜査本部全体としては、初日にろくにできなかった捜査がやっと本式に始まっていた。しかし糸口となるものは乏しく、〈解決には非常な困難が予想される〉が最初に出た結論になる。
まず第一に使われた毒だ。湯呑とそれに残っていたわずかな液と、遺体の胃の内容物と現場で採った吐瀉物をふたつの大学に送り鑑定を依頼する。
だがどちらの研究室も出した答は「青酸系の化合物なのは確かだがそれ以上の特定はできず」だった。胃の中身や吐瀉物は雑物が混じって検査が困難となり、湯呑はただの水だったろう〈SECOND〉の液にゆすがれて何も採れなかったというのが理由だ。「おそらく青酸カリか青酸ナトリウムだろう」との言葉も添えられていたがどちらも工業用に広く使われる薬品で入手は難しくないとされ、手掛かりになると言い難い。
次に被害額の確定で、帝国銀行本店の帳簿を読める人間に調べてもらって果たして金は盗られたのか、盗られたとしたらいくらなのか突き止めようというわけだが容易い作業のはずもなかった。やって来た者は途方に暮れた顔をして、一日で終わるかどうかもわかりませんとまず言った。
それをとにかくお願いしますということにして第三に指紋だが、これはもともと最初から期待されていなかった。生き残りの四人によればホシはずっと手袋をしてたというのだ。手袋をした人間の指紋が残るわけがない。
それでも採取が徹底的に行われたが、ホシが触れた見込みのあるどこにもめぼしい指紋はなかった。また湯呑は17あったはずなのがひとつ足りずに16個になってたのだが、これはホシが自分が使った分を持ち去ったためと見るのが妥当だ。
ゆえになおさら指紋から割れる望みはないとして、第四が似顔絵の作成だった。荏原の30人と椎名町の4人、それに中井でホシを見た数人の言葉を元に顔が描かれる。これは割合にすんなりといって全員が似てると言うものが出来上がり、やはり三件ともすべて同じ男の犯行なのもほぼ確かなことになった。
顔が似ているだけでなく目立つ特徴があったともいう。左の頬に大きな滲(し)みがふたつあるのをほとんどの者が憶えており、似顔の横に《シミ》と書き添えることになる。
他に中井と椎名町にそれぞれひとり「顎に傷痕のようなものがあった」と述べる者がいたが、それについて他の者は「わからない。記憶にはない」と言うことになった。それでもこれも《傷痕?》と書き添えられて、印刷して交番などに配る他、新聞に載せるように手配される。
そして第五番目が名刺だ。三つの件のいずれでもホシは名刺を出しているが、未遂の二件の支店長はどちらもそれを保管していた。
椎名町のゲンジョウからは無くなっていたので、ホシが回収していったと考えられる。生き残った四人の中で名刺を見たのは支店長代理ひとりだけだが、そこになんと刷られていたか、男がなんと名乗っていたかは憶えていないと言った。
荏原の名刺は、
厚生技官
医学博士 松井蔚
厚生省予防局
と刷られ、次の中井は、
厚生省技官
医学博士 山口二郎
東京都防疫官
となっている。ホシが残したこれだけが遺留品であり、現時点で最も有望な手掛かりと言えるものだった。
ものだったが、
「名刺なんか百枚いくらでどうにでも頼んで作れるだろう。これが適当に刷ったもんなら望みなしだ」
と誰もが思うところでもある。しかし調べを入れないわけにいくことでももちろんない。
よって当たってみたところ、結果は驚くべきものだった。無理と決めつけた者達は、出てきた事実に「そんな」と言うことになる。