粧説帝国銀行事件
嗽
夜のうちに捜査本部が目白の警察署に作られていた。池袋から南にひと駅。その東が椎名町で署はゲンジョウにほど近い。昨夜は用意がなかったので古橋は長屋に帰ったが、今後はここに泊まり込むことになる。
朝一番に捜査会議。昨日に「未遂を探すべき」と言ったベテランの刑事がいたが、その考えが当たりだったのがまずわかっていた。
ただし探すまでもなく先方から出て来たのだが。同じホシが同じ手口を別の銀行に仕掛けたと思しき件がふたつあり、どちらも失敗に終わっていた。そのふたつの店の者らがニュースを聞いて訴え出たのだ。
最初の未遂は三ヵ月前の前年10月14日。品川区平塚にある安田銀行荏原(えばら)支店で、やはり閉店直後の店に裏口から入ってきて名刺を出し衛生員を名乗ったという。支店長が会ってみると男はにこやかに笑いながら、
「お忙しいところすみませんねえ。でもわたしも今日はもういろいろあってクタクタですよ。クッタクタ。茨城の水害地で赤痢(せきり)が出たというもんだから朝から行かされたんですがね。するとそこで……」
という調子に話し始めた。自分を大物らしく見せようとしているのが見え見えで、最初からどうも怪しく感じたと支店長は言う。
名刺には厚生省予防局の厚生技官で医学博士とあるが、そんな人間がひとりで来るというのも変だ。疑いながら聞いていると、男が言うにはその水害地からこの平塚へ出て行った者がいるというので問い合わせると案の定病気が発生してるとわかり、GHQの中尉とジープでやって来たら患者のひとりがこの支店を訪ねていたので、
「この銀行のオール・メンバー、オール・ルーム、オール・キャッシュ、オール・マネーを消毒しなければなりません。金も帳簿もそのままにしておくように」
などと話した。けれどもここで支店長はいよいよ怪しいと感じたという。
おおるめんばあ、おおるるうむ? 進駐軍の中尉さんがそう言ったというのだろう。自分は英語が話せると言いたいのだろうがあまりにも嘘くさい。ほんとに英語がしゃべれる者がこんな話し方するものか。
騙(カタ)りだな、と考えて支店長はこっそり交番に使いを出した。しばらくすると巡査が自転車でやって来て、「見てきたけれど病気が出ているようすなどない」と言って男を睨んだ。
ホラ見ろ、と思ったのだがしかし男は落ち着いた顔で「そんなはずはないですよ。進駐軍の消毒班が確かに来てます。場所が違うんじゃないですか」と返したという。巡査はもう一度確かめに行き、後に男と支店長が残された。
「それでなんだか従うしかない感じになってしまったのです」
と支店長は語る。男はやって来たとき肩に小型の布鞄を掛けていたが、そこからいくつかのものを出した。
まず大小二本の瓶だ。大は半リットルほどで小は醤油差しくらい。大の瓶には《SECOND》という手書きのラベルが貼ってあった。
他にピペットと呼ぶのだろうスポイト器具の大きめのもの。店の者が集められ、人数分の湯呑を出すよう言われてそれに従うと、男は小瓶の中の液をピペットで取って少しずつ分けた。
湯呑一個に対して茶さじ三分の一ほど。色は醤油か蕎麦のつゆを薄めたようだったという。男は湯呑のひとつを取って「これは進駐軍が使っている非常に強い薬だが、歯の琺瑯質を傷めるので気をつけねばなりません。自分が手本を見せるので同じようにやってください」と言った。
口を大きく開けて舌を出し、顔を上に仰向けさせて湯呑をその上に持っていき、そのわずかな量の液を舌に垂らし落とさせる。
「わかりましたね。合図で一斉に飲んでください」
袖をまくって腕時計を見ながら告げた。皆が飲んだが味はこれまた醤油のようだったという。男は卓に戻された湯呑に大瓶の液を少しづつ注(そそ)いだ。
が、明らかにミスと思えることがここでひとつあったという。その支店に従業員は30もいたが、瓶の中身は途中で無くなり、液の注(つ)げない湯呑が二個出たというのだ。しかし男は「これは飲んでも飲まなくてもよい」などとそこで言ったという。
支店長はまた怪しいと思ったが、「一分経った。二液目を飲め」と続けて言われる。皆が飲んだがこれはどうにもただの水のようだったという。男は店の者達の顔を窺うようにしたが全員なんともない。
そしてそれから10分ばかり「消毒班がそろそろ来そうなものだが」と言いながら皆の顔を覗くようにしていたが、「遅いのでちょっと見てくる」と出て行きそれきりとなる。
そこに巡査が戻ってきて「やっぱり伝染病などない」と言ったけれども後の祭り。行員達はそのあと少し気分が悪くなったりしたがそのまま仕事を続けたという。
「てわけでこれまでこの一件は〈妙な出来事〉のひとことで片付けられていた。昨日のヤマと手口はほぼ同じと言える」
と目白署の会議室で係長の甲斐が言った。現場を歩く刑事を束ね、捜査の指揮を実質的に執る人間だ。
「人相・風体も一致している。年齢50歳ほどで身長160センチ。白髪(しらが)混じりの丸刈りで整った顔の美男子だったと。同一人物と見てよかろう」
刑事らがみな頷いた。甲斐は続けて、
「違いは飲まされた薬だな。昨日の件では量は茶さじ一杯ほど――つまり荏原の三倍でちょっと白く濁った透明。味は凄まじいほどの苦さで喉が灼けるようだったそうだ。二液目はやはりただの水らしかったが、飲んだところで猛烈に苦しくなって、嗽(うがい)をしてもいいかとホシに尋ねたという。どうぞと答えられたので皆が水飲み場に走り、ガラガラとやったところでさらに苦しくなってバタバタと倒れていった」
「それでゲンジョウがあんなことに……」
と刑事のひとりが言うと「そうだ」と返して、
「これはつまりこの一件は未遂ではなく予行だったということだろう。だから薬が違うんだ。失敗して未遂に終わったわけでなく、銀行員のような者らを信用させて薬を飲ますことができるかを見る実験だった。で、昨日のが本番だった」
「なるほど」と同じ刑事。
「それ以外に考えられん。これはすなわちホシはさらに大きなことを計画してるということだ。昨日のヤマもまたそのための予行なのだ。背後に巨大な闇の組織が存在し、同じことをこれから何千という場所でやり、何万という人を殺そうとしている」
「そんな……」とまた同じ刑事。
「何十万か何百万、何億人であるかもしれない。そんなことを企む組織はただひとつしか考えられない」
そこでいったん言葉を区切り、一同の顔を見まわして続けた。
「GHQだ」