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粧説帝国銀行事件

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第1章 1月26日〜2月13日


 
『古橋さーん、警察の方よーっ!』
 
と長屋のおかみさんが呼ぶ声がした時、古橋は自分の部屋で炬燵にあたって雑誌を読んでるところだった。
 
カストリ雑誌と呼ばれる類の低俗なものだ。中身はしょうもないのだが、江戸川乱歩の『怪人二十面相』を真似たような小説が載ってた。戦争中に軍が作った人を透明にする薬があって、手に入れた男が飲むのだ。でもってまず女の部屋に忍び込んだり嫌いなやつをぶん殴ったり、いろんなことをやって楽しむ。
 
その後に銀行を襲うことを考えるのだが、どうやるかだ。自分の姿は人に見えないがお金は見える。札束が宙を飛んでいくのが見えたら人は追いかけてくるだろう。指紋を残すと自分が犯人なのがバレるが手袋をするわけにいかない。いつか警察が来るのを恐れてビクビク暮らすしかなくなってしまう。
 
ではどうするかというところで《次号に続く》でおしまいとなってた。この野郎と思いながら雑誌を投げて、窓を見る。午後の空を太陽が西に傾いていた。
 
一年で最も寒い1月下旬だ。今は晴れてるが昼前には雪が降ってた。それが隣の屋根などに白く残っているけれど、その透明人間はこんな日にはどうするのだろう。
 
なんてことをふと想う。じきに日が暮れますます冷えてくる頃合いだ。なのにそいつは何をやるにも裸でなけりゃならないのだよな。
 
凍えるに決まってる。透明人間もいいことばかりじゃないんだな、炬燵から出たくないなと考えながらまた雑誌を取り上げたところにおかみさんの声。
 
『古橋さーん』
 
とまた言った。もちろん出ないわけにはいかない。古橋は「はーい」と返事して、袢纏(はんてん)を羽織った姿で戸口に向かった。
 
顔を出すと制服の巡査が立っていてピッと敬礼してくる。階級は古橋もヒラの巡査なのだが、本庁の捜査第一課刑事では町のお巡りと格が違う。
 
とは言っても、
 
「いいよ敬礼なんてしなくて。呼び出し?」
 
「はい。本庁から電話です」
 
「わかった。ご苦労さん」
 
いったん引っ込んでコートとマフラーを取る。この部屋にも長屋のどこにも電話なんてものはない。呼び出しに応じるには近くの交番まで走るのだ。
 
靴をつっかけて外に出た。道は解けかけの雪でぐちゃぐちゃにぬかるんでいた。
 
あの話の透明人間なら警察に追われた時にここを裸足で逃げるんだろうなと思いながら交番へ。さっきとは別の巡査に手帳を見せて電話を借りる。刑事部屋の番号をまわすと出てきた声が「はい捜査一課」と言った。
 
「古橋です」
 
『ナナか。非番のところ悪いが、殺しだ。ゲンジョウ行ってくれ』
 
「どこですか」
 
『豊島区の椎名町』
 
そして番地を読み上げられる。古橋はメモに書き取ってから、
 
「テーコク銀行シーナマチ支店。銀行で殺しですか。何があったんです」
 
『わからんが、十何人か死んでいる』
 
「は? ヤクザが撃ち合いでも……」
 
『だからわからんが、そういうのじゃない』
 
「じゃあ、ヤッパ(刃物)で刺し合いでも」
 
『んなんじゃねーつってんだろう。とにかく早く行け』
 
と言われて通話が切れた。受話器を置くと交番の巡査がこっちを見ている。
 
古橋が見返すと、
 
「なんかずいぶん大変なことみたいですよ。十人が毒を飲まされたとか……」
 
「なんだいそりゃあ」
 
「さあ。それしか聞きませんが」
 
「ふうん」と言った。メモを見て、「シーナマチって一体どこだろ」
 
「池袋からひと駅ですね。私鉄の西武池袋線で」
 
「そっか。どう行きゃいいのかな」
 
「そうですね。こっからだとまず都電で……」
 
地図を出して行き方を考えてくれる。現場付近の道も書き取り、「ありがと」と言って交番を出た。
 
わずかのうちに太陽がさらに西に傾いている。その光線が街をまだらに染めている。残り雪が夕日を受けて金色に光り、他のものは黒い陰。古橋はまたぬかるみを路面電車の停留所まで駆け出した。
 
道は英語の看板だらけだ。それが今の東京だ。敗戦から二年半になる今もチラホラと焼け跡が残り、人が住むのはバラックばかり。
 
チンチンと走る電車に乗れば寒空の下のあちらこちらにドラム缶で焚火している人が見える。そんな光景を窓に見ながら、都電を降りて後はタクシー。ゲンジョウと思しき場所に着いてみると道が人で一杯だった。
 
この寒いのに事件と聞いて集まってきた野次馬だろう。何が見えるというもんでもなさそうなのに首を伸ばして路地の奥を見やっている。そこに裸の女でも出たというかのような騒ぎだ。
 
デカを何年もやってきたがこんなのは見たことがない。確かにあの交番でアタリをつけた場所のようだが、一体何があったというんだ? 古橋は怪訝に思いながら、「警察です。通してください」と言って人垣を掻き分けていった。
 
道は左右が木の板塀で挟まれた路地だ。ゲンジョウは銀行と聞いたが銀行? こんな路地裏に? 野次馬の頭越しには瓦屋根の家しか見えず、銀行らしく見えるような建物はない。
 
大体こんな裏道に銀行なんて建てるものか? 戸惑いを深めながら進んでいくと、制服の警官達が野次馬を押し退けているところに出た。その向こうにあるのはやはり普通の日本家屋としか見えない建物。
 
今は残り雪を被って夕日に赤く照り映えている。もう日没寸前だ。古橋は手帳を出して警官が張る綱をくぐった。
 
家の前には《捜一》の腕章を着けた私服の刑事。同じデカ部屋の先輩だった。古橋は近づいて、
 
「すみません。いま来たところなんですが」
 
「うん? おれもそうだけどな」
 
「何があったんです。銀行と聞いたけど、これが銀行?」
 
「ああ銀行だよ。そうは見えないだろうけど」
 
「ほんとに銀行?」
 
言うと相手は「ほら」と傍らの門柱を指した。なるほど《帝国銀行椎名町支店》と書いた看板が張ってある。
 
張ってあるけど古橋にはかえって疑わしく思えた。普通の民家の門柱にただの板切れを張りつけて、墨でそう書いただけのようにしか見えない。門構えは何をどう見ても普通の家で、その奥にあるのは格子戸の玄関だった。
 
しかしその先輩は言う。「入ってみりゃわかるよ」
 
「はあ」
 
古橋は門を抜け、格子戸の口を入ってみた。
 
するとなるほど内部はいかにも銀行支店という設(しつら)えだった。窓口の台に客を待たせるための椅子。奥に大きな金庫があり、壁にナントヤラ預金だのカントヤラ国債だのの案内書きが貼られている。
 
「ふうん」
 
と言ったが屋内にはひどい異臭が漂ってもいた。これは反吐(へど)の匂いだろうか。床や事務机の上が黄色い汁にまみれていて、誰かが吐いたものらしく見える。
 
しかし普段目にするゲロとはちょっと違うようでもあった。具のない味噌汁をこぼしたようなただの黄色い液体で、未消化の食べ物らしきものがほとんど混じっていない。
 
胃液だけを吐いたのだろう。それもひとりで出したのじゃない。何人もでそこらじゅうにブチ撒けている感じだった。
 
でなきゃこれほどの量になるまい。それに吐瀉物とは別の臭気もまた感じるように思った。
 
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之