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粧説帝国銀行事件

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貫吉


 
皇居前広場はあの夏の日に万の都民がうずくまって泣いた場所だ。しかし泣いた者達は別に日本が敗けたから泣いたわけでは決してない。
 
ポツダム宣言受諾自体は前日中にラジオで報じられていた。我らはポツダム。我々は大勢であるがゆえに、日本にあるのは降伏かピカドンとくる壊滅のみだ――それが陛下の聖断で受諾することになりましたとラジオは言うし新聞も書いたが、嘘だ。そんなはずはない。
 
だって、だって、陛下はポツダムを許さないから。そう言いつのる者達がその日そこに集まってきた。正午になれば「降伏など嘘じゃーっ!」という叫びとともにビュビュビュビューンと陛下が巨大化。100メートルの高さから我らを見下ろし頷いてから、敵を倒しに飛んで行かれるに違いない。ここで信じて祈っていればそれを見ることができるのだ。我らの祈りが陛下に力を与えるのだ。
 
――なーんてことを信じるのが人の愚かさというものである。受諾放送の一分前までラジオは「勝利は目前」と吠え立てていたし、新聞は「敵が原爆を使ってきたのはそんなものまで使わなければならないほどに敵の方が追い詰められてるということなのだ」と書いていた。その報道を信じていれば次に信じることが決まり、だからその日に人々はその広場やラジオの前で奇跡が起きるのを待っていた。
 
しかし正午の放送は男の戦いの宣言でなく、何を言ってるかわからなかった。敵に国土を明け渡すのは朕にとって耐え難く忍び難いが大事なのは帝(みかど)としての地位の安泰だけなのだ。民は奴隷になるがよい。
 
という意味ですと説明されて、神を信じた者らは泣いた。
 
裏切ったのだ。神は我々を裏切った――という魂のリフレイン(反復句)。神に見捨てられたとき国は国でなくなって、人も未開の地にはびこる類人猿と同じになる。もう我々はそうなったと知って人々は泣いたのだ。
 
国が滅びても王だけ生きてるなどというのは滑稽だった。古橋がいま見る濠の対岸では、進駐軍の男と日本の女達が身を寄せ合って笑い合ってる。
 
瞭子もそちらを眺めて言った。
 
「今日、帰ったら家が人に囲まれてたの。父さんが犯人だから殺してやると言う人と、聖人だから無実だって言う人と。家に向かって拾捌萬は春画を描いて売ったのを恥ずかしくて隠した金と言ってくれと泣いてる人達……」
 
濠の向こうからは笑い声だけが聞こえてくる。古橋はなんと答えていいかわからず、
 
「って、一体なんだそりゃ?」
 
ととりあえず言った。瞭子はまたキッという眼を古橋に向けて、
 
「何よ。あなたのせいじゃないの。あなたの嘘のせいでこんな……」
 
とまた言う。古橋は「いや」と返したがその先を続けられない。
 
「あなたが約束を破るから。あなたが嘘をついたからよ。あんな汚いやり方して……」
 
濠の向こうをまた見てつぶやく。そう言われたら返す言葉はなかった。
 
あの手を汚いと言われたら反論できない。もちろんそうだ。卑怯なやり方をしたし、おれは卑怯な人間なのだ。あの時まさかあれほどのネタを獲れると思っていなかったのでもあるがそれは言い訳になるまい。平沢を犯人として世にさらせばこの子がどうなるか考えないわけではなかった。なのに嘘をつき、守る気のない約束までした。
 
その通りだが、しかしなぜ? 疑問を口に出さないでもいられなかった。
 
「けど、なんでここに君が? おれがいると知ってたなんてことはないよな」
 
「何を言ってるの」
 
「いやその……だから、家に入れなくてここに来た。そしたらおれがたまたまいただけなのか」
 
「そんなこと訊いてどうするの」
 
「いや……」
 
刑事の習性だ。誰と話しても矛盾や不自然なところを探し、不審があればどんな細かなことであっても問い質(ただ)さずにいられない。今もまたついそれをやってるだけかもしれないと自分でも思ったが、
 
「さっきおれに訊いたろう。そこで何をしていたって。あれはどういう……」
 
「ああ。そこで何していたの」
 
「いや、おれが訊いてるんだよ」
 
「いいえ。あたしが訊いてるのよ」
 
「いや……」
 
とまた言ってから、自分の敗けなのがわかった。しかし、
 
「悪いけど言えない」
 
「フン」と言った。「また父さんを追う気なんでしょ。どうしても死刑台にやりたいんでしょ。だから捕まえさせてくれってここに頼みに来たんでしょう」
 
「そういうわけでは……」
 
「嘘よ。あなたの言うことは嘘よ。全部、何もかも」
 
その通りかもしれない。結局のところおれは平沢を追いたいのだ。おれが猫でやつが鼠だからという、理由はそれだけで、捕らえた後でどうなるかは狩りの間は考えないわけだから、この子に何を言おうとも嘘になるのかもしれない。
 
そう考えて黙っていると瞭子は言った。「父さんは犯人じゃない」
 
「本当にそう思うのか」と返した。「さっきの春画の話。あれを信じてる?」
 
さっきはなんだそりゃと言ったが弁護士などがそんなことを言い出したのは知っている。瞭子は小さく首を振って、
 
「父さんなら、拾萬圓で売れる春画をもし描いたら隠すどころか大威張りで人に見せびらかすでしょうね。十枚書いて佰萬稼ごうとすると思う」
 
「ああ」と言った。そんなふうにはこれまで考えてみなかったが、「なるほど。そんな人間らしいな」
 
「何よ」
 
「いや……」
 
と言った。さっきからそれしか言えない。
 
「あなたはあいつらと同じよ。事件を政治や運動に利用しているだけの人達。まだ父さんを吊るそうとする人の方が嘘をついてないだけマシ……」
 
「え?」と言った。「そうなのか。だからここに来ておれを見たんだな。それで今……」
 
瞭子は古橋を見た。何も言わず頷きも首を振りもしなかったが、それが答になっていた。
 
なるほど、わかってきた気がする。どうしてこの子が今この場所にいるのかも。
 
平沢の無実を叫ぶ人間は瞭子にとって味方のはずだが、違う。彼女に食いつき血を吸おうとする蛭の群れでしかないのだろう。GHQ実験説を唱える者の正体はそれだ。
 
玉音の日にそこで泣いたのと同じ者達。天皇陛下が三種の神器の力によってビュビュンとなると信じ込んでた。それが今ではあの広場は日本の男が入ることもできなくなって、若い娘がGIにハンバーガーを食わせてもらう場所になってる。
 
それが気に食わぬから『金色夜叉』の話のようにアプレ娘を「ハンバーガーに目がくらんだか」と蹴っ飛ばし、夜空の月を悔し涙で曇らせながら日々を生きる。
 
そこに起きたのが帝銀だ。GHQ実験説は事件発生直後にすぐ生まれたが、そんな〈貫吉〉が言い出したことに同じ貫吉な男達が頷いただけの与太に過ぎない。戦時は兵隊に取られずに工場勤めなどしていた者が床屋で髪を切ってもらいなどしながら、
 
「俺は特務にいたんだが、あの事件は俺がいた暗殺部隊のやり方そっくり……」
 
なんてことをフカシて言った。
 
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之