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粧説帝国銀行事件

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平沢は走った。走ったがすぐ限界が来た。運動不足の五十路(いそじ)の体で長く走れるはずがない。
 
走れた距離はせいぜい30メートルだろう。そこで息が切れたところに追手がドドドとやって来る。
 
戦争で家を焼かれ家族を失くし、銃撃の雨にさらされて、戦後もこの三年のあいだ雨漏りのするバラックで芋の蔓を食ってきた者らだ。山の手に家を構える人種を心から憎んでいる。
 
B-29の空襲は主に下町に集中した。兵隊も玉砕必至の地に征かされたのは貧乏人だ。金持ち族はなんの危険も無いところでうまいものさえずっと食ってて、今はかつての敵に取り入り甘い汁を吸っている。
 
そんな選民が暮らすところのひとつが中野のこの辺りで、平沢はその仲間入りをするためここに宅地を買った。そして豪邸を建てようとしたが、拾萬ばかり金が足りなかったのだった。
 
だから帝銀をやったのだ――なんて話は逮捕後すぐにアングラ雑誌なんかに書かれて世に広まっている。汽車が上野に着いた時には読んだ賤民が駅に押し寄せていたから平沢は膾(なます)にされるところだった。
 
そして詐欺の発覚から過去にしてきた百の悪事が掘り起こされて報道され、自分を知る誰も彼もに、
 
「悪銭身に付かずというやつですね。絵が売れなくても画家の肩書はあるもんだからそれで事業とかやろうとすっけど、失敗して借金だけが残るという。欲をかいてズルをやるからしくじるんだが反省てものを知らないから、その負債を別の不正で埋め合わそうとするんですよ。結果どんどん悪い方に転がっていって、より悪いことしてくというね。だからいつかとんでもないことやるんじゃないかと思っていたけど、しかしまさか帝銀かあ」
 
だとか、
 
「平沢の黒い話を数え上げたらキリがないすね。画商を通せば佰圓にもならない絵を壱萬圓で売りつけられた素人さんがどんだけいるか。文展無鑑査というだけでそれが何かも知らない人がコロッと騙されるわけでしょう。横山大観(たいかん)の一番弟子だなんて嘘もつくし。あの男に同業者がどれだけ迷惑してきたか」
 
だとか言われている話がラジオで全国に放送された。そして何より事件直後に出所不明の大金を手にし、うち捌萬を偽名で預金――その事実が白日の下となったのはあまりに決定的だった。
 
このおれを無実と考えるのは、もうどこにもただのひとりもいないのだと平沢はわかった。それでもおれを無実と言うのはたとえばアカ(共産主義者)や、三年前の降伏後にも聖戦継続などと叫んだようなやつだと。
 
中国とソ連が好きでアメリカが嫌いか、アジア全部を日本のものにしたかったからそれを阻んだアメリカが憎いか。そんな者らが事件をアメリカの陰謀にしたがり、おれが犯人じゃ困るから無実なんだと叫び続ける。
 
何も考えていないんだからおれを無実と考えているわけではない。そしてエリートがほとんどみんなアカかヒノマルのどっちかであるため、おれを無実としようとして「釈放せよ」と圧力をかけた。
 
検察庁の中にもやはり同じ手合いが多くいるため今日に放免になったわけだが、それを知って頭に血を上らせた下層の民がいま自分を追いかけてくる。野良犬のように生きて溜まった戦中戦後数年間の憤懣をぶつける恰好の標的として。
 
だから捕まれば鯵(あじ)の叩きか鯵の開きにされるのだ。逃げねばならない。走らねば――そうは思うが心臓がもたない。脚が動かない。走るどころか歩くことさえできなくなるのにほんの15秒ばかり。
 
そこでとうとう追いつかれ、平沢は襟首を掴まれた。
 
「たたんじまえ――っ!」
 
と叫ぶ声。もうおしまいだと思ったその時、近くで何か破裂したようなパーンという音が響いた。
 
その途端に場が静まる。続けてまたパンという音。
 
それから、
 
「その手を離せ」
 
と言う男の声がした。場にザワザワとざわめきが起こる。
 
平沢は首をまわして後ろを見た。すると自分を捕まえた男に別の男が対していた。手に拳銃を握っていてその先を突きつけている。
 
「おい……」
 
と自分を捕まえた男。それに対して拳銃の男が、
 
「手を離せと言ったんだ。聞こえないのか」
 
言って銃口を少し下ろした。それがまたパンという音とともに火を噴いて、相手の足許の地面が爆(は)ぜる。
 
それから先をまた男に向け直した。この銃は確かに本物であり、従わなければ次は体に当てるぞという意思表示なのが明らかだった。襟から手が離されて平沢は身が自由になる。
 
――いや、なったわけではない。脅された男は手を離しはしたが、相手を睨んで「おめえ、なんのつもりだ」と言った。まわりの者らも敵意の眼で拳銃を持つ男を見る。
 
そして誰からともなくのように、皆で囲い込む動きを始めた。数は百にも近いのに対し、拳銃男はたったひとりだ。ただ一挺のピストルがたいした脅しになる集団でも有り得なかった。
 
囲まれればおしまいだ。人を撃ったら自分も鯵の叩きになるだけ――それは男にもわかるのだろう。顔に焦りの表情が浮かんだ。
 
さらにそのうえ、群れの中から「ハジキならおれも持ってるぞ」と言う声がした。進み出てきて懐から抜き出したものを男に向ける。
 
拳銃だった。リンチ集団の方の中にもそんなものを持ってきていた者がいたのだ。
 
そしてまた、そいつの銃の方がでかい。大蛇でも撃つ鉄砲なのかといったような代物だった。撃鉄をガチャリと起こして「失せな。一緒に死にたくなきゃな」と言う。
 
それから「そっちはもう何発も残ってねえだろ」と続けた。言われた男は図星を突かれたようになった。
 
平沢はその小ぶりの拳銃を見た。映画でよく見る蓮根のような弾倉が回る種類のものとわかるが、三発撃ったら残弾はもうそんなにないのか。なるほどそのように見えるが、
 
「おい、あいつを撃て」
 
と男にだけ聞こえるくらいの声で言った。
 
〈まだ二、三発撃てるんだろうからそれであいつを撃ち殺せ〉という意味で言ったのであり、相手は理解したようだが、
 
「うるさい」
 
と返してきた。平沢は黙らず、
 
「あいつを撃てよ」
 
「うるさいってんだ」
 
言い合いになる。結局、降参するしかないようだった。男は衆に向けて両手を挙げた。
 
ただし拳銃は持ったままだ。銃口は上に向けていたが、そうする前に路地の先にある何かを眼で捉えていたようだった。
 
光だ。それにやかましい音。路地の中をこちらに向かってやって来るものがある。
 
三輪トラックだった。戦前から日本の道を走ってきた乗用車とも呼べぬちっぽけな乗り物だが、ガソリンで動き人より速い。それがヘッドランプを光らせ、そいつに出せる精一杯のスピードらしき勢いでバタバタとやってきたのだ。
 
2サイクルのエンジンが立てるけたたましい響き。そしておまけにチャルメラのような警笛まで鳴らしていた。パパラパラララパララララー、といった調子の妙なメロディーになっている。
 
「来い!」
 
と拳銃の男は叫び、平沢の腕を掴んだ。その三輪の方に駆け出す。
 
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之