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粧説帝国銀行事件

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芋蔓



平沢は走った。走ったが、すぐに限界が来た。運動不足の五十路(いそじ)の体で長く走れるはずがない。

全力で走れた距離はほんの20か30メートルだろう。スピードが落ちたところに追手がドドドとやって来る。戦争で家を焼かれ家族を失くし、この3年間、雨漏りのするバラックで芋の蔓を食ってきたような者達とわかっていた。

あの新築の豪邸に住みもしないで北海道。どこでどう手に入れたのか説明のつかない拾八萬でこの7ヵ月を優雅に過ごした自分を心底憎んでいる。今日に娑婆に出て来られたのも文展無鑑査の画家だからだ。しかしそいつもエリート族の犠牲になってきた〈平民〉には憎む理由にしかならないのだから、捕まれば殺されるとわかっていた。

わかっていたが心臓がもたない。よろよろとして立ち止まりかけたところにとうとう追いつかれ、後ろから襟首を掴まれるのを平沢は感じた。

「たたんじまえ――っ!」

と叫ぶ声。もうおしまいだ、と思った。そのときだ。ぱあん、と何かが破裂するような音が響いた。続けてぱあんともう一度。

途端に場が静まった。ザワザワとした音だけになる。その中で、

「その手を離せ」

と言う声がした。それに対して、

「おい、ちょっと……」

と応える者らしき声。これは平沢を捕まえた男が発したもののようだったが、またぱあんと鳴る音とともに足元の地面が爆(は)ぜる。何か小さなものが目にも止まらぬ速さで激しくぶつかったように。

そして何かが燃えたような匂いがする。火薬だ、と嗅いだことがなくてもわかった。銃だ。誰かがこの場所で、銃を何発か撃ったのだと。

「これは本物だぞ」

とまた声がする。平沢の襟を掴んだ男に向けられたものであり、オモチャではない本物の拳銃だと言ったのであり、従わなければ撃つと言っているのだとわかった。

襟首から手が離れた。平沢はとりあえず自由になる。

見るとやはり拳銃を手にした男がこちらにやって来ようとしていた。それに向かって、「どういうつもりだ」と別の誰かが問う声がする。しかし拳銃の男は応えず、平沢の許に寄ってきて耳に囁くように言った。

「一緒に来い」

だがその声が見てる者らにも聞こえたか、聞こえなくてもなんと言ったか誰にも察しがついたのだろう。「おい、待てよ。そいつをかばう気じゃねえだろうな」という声がした。平沢が見ると声を発したらしき者は続けて、

「ハジキならおれも持ってる」

と言って、懐から拳銃を取り出した。ひとり目が持ってるのよりでっかいやつだ。

「邪魔すんならお前も撃つぞ」

「ちっ」

と最初の拳銃の男。もちろん今のこの世の中、戦争で銃を手に入れ自分のものとした者などがいくらでもいるに違いない。この場にそれがひとりくらい混ざっていても当然なほどに。

最初の男はこれまで威嚇の発砲しかしていない。どうするんだ、と平沢は思った。ふたり目のやつを撃つのかな。できればそうしてほしかったが、そこまでする気はどうもなさそう。降参のしるしとして引き金から指を離し、銃を持つ手を上に挙げて相手に見えるようにする。

平沢は言った。「おい、何やってんだ。あいつを撃て」

「うるさい」

「あいつを撃てよ」

「うるさいってんだ」

――と、言ったときだった。路地の先にクルマが一台、脇道からギャギャギャギャンとタイヤを鳴らして現れた。無理矢理のように角を曲がり、こちらに向けて突進してくる。ヘッドライトの強烈な光。

なんだ?と思う間もなく、

「来い!」

最初の拳銃の男が叫んだ。それから後ろの群衆に向けてバンバンと何発か撃つ。人に当てようとしたのでなく、頭の上を狙ったようだが誰も彼もが身を縮めて飛び退いた。

クルマは平沢達の前で急ブレーキ。「乗れ!」と拳銃の男が叫ぶ。迷っている場合でなかった。平沢はドアを開け、その車内に飛び込んだ。

続いて拳銃の男も乗り込む。クルマはギヤをバックに入れて、狭い路地を逆向きに走ってその場を去ろうとし出す。

「野郎!」

という声が群衆の方でした。見るとふたり目の拳銃の男がバンバンバンとこちら向けてあのでかいのをぶっ放し出す。それが当たって、フロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入った。

「わあっ!」

と運転している男。それでもスピードを緩めずに、バックで走って脇道との角まで来るとまた無理矢理に折れ曲がる。

それでどうにか窮地は脱したようだった。平沢は「ど、どうも」ととりあえず言ったが、

「礼を言うのは早い」

と拳銃の男は言った。

「訊くことがあったから救けたんだ。あんたが帝銀の犯人だよな」

「い、いや……」

「違うのか? なら用は無い。殺すかあの連中に渡す」



作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之