粧説帝国銀行事件
雉
「雑誌で見たわ。お父さんを抱(かか)えてた刑事。あれはあなたよね」
瞭子に言われて古橋はうんと答えるしかなかった。そんな写真がグラフ雑誌に載ったことは知っている。小樽から東京までの護送の途中に函館で撮られたものだろう。
それは瞭子にしてみれば、古橋が彼女にした約束を守るつもりがなかった証拠ということになる。そしてもちろんその通りだった。守るつもりがないどころか、最初から騙すつもりで近づいたのだ。そこで彼女が父親を憎む気持ちを持っているのを知ってつけ込み情報を得た。
雉(きじ)も鳴かずば撃たれまいに、娘にその父親を吊るさすための情報をだ。今日に釈放になりはしたが、
「その……君には悪いことをしたと思ってる」
言うと瞭子は泣き笑いの顔になった。
「何よそれ。嘘よ。忘れていたじゃない。いま忘れてたよね、あたしのこと……」
「い、いや違うよ。君だとはちょっとわからなかっただけだ」
「キミなんて呼ばないで! あなたなんかにキミだなんて呼ばれたくない!」
「わわわ、わかった。謝る。謝るから落ち着いて」
「謝る? 謝って済むと思うの。あたしこれからどうすればいいの。ねえ、どうやって生きてきゃいいのよ!」
「それは……」
言ったが後を続けられない。知らないとしか言いようがないが、言ってしまったら終わりだろう。
謝って済むことでないのを瞭子にしたのは事実であり、それは彼女の父親が大量毒殺の犯人かどうかと関係がない。自分はひとりの人間として許されぬことをこの子にしている。
だからやっぱり人としておしまいだった。ジープのふたりをまた見ると、眼をそらしてあさっての方を向いている。だがそうしながら『なんだか知らんがおもしろいことになったぞ』と横目に窺っているようだった。
どうせ言葉は通じない。「ええと」と言って瞭子に直る。
瞭子もまた男らの方をチラリと見てから、古橋を睨み直してきた。この娘に古橋は二十日ほど前初めて会った。その父親が帝銀の犯人である情報を得るためだったがそんなことは言えないから、偽の口実を作っていた。
その時に古橋が、
『ええと、あなたのお父さんは名のある画家だそうですね。そんなお人に限ってとは思うのですが……』
警察手帳を見せて言うと彼女は身を強張らせた。そうだ。最初から騙すつもりで近づいたと言われたとしても仕方がないし、その通りでもあるわけだが、古橋としてはまだこの時は探りを入れただけのつもり。しかし瞭子の方では既に、自分の父があの事件の犯人だと半ば確信していたらしい。
それも当然と言えるだろう。事件の後で新聞に出た似顔絵は平沢貞通によく似ていた。その後に出来たモンタージュ写真はさらにこの画家にそっくりだった。そして彼女の父親は事件直後から東京を離れ、家族も建築中の家も放って北海道に行ったきり。そしてそこでは何もせず隠れるように暮らしている。
半年もだ。この時点で犯人と思うなと言う方がおかしいくらいの話だが、あれが犯人じゃないかというのは平沢を知る者の間でやはりささやかれていたらしい。
それも当然のことと言えた。その画家の評判ときたらとにかく悪く、良く言う者はほとんどおらず、それどころか『あいつには関わるな。いつかそのうちとんでもないことしでかすに違いないからな』と付き合ってひどい目に遭った百人が百人とも言う男だった。
それほどまでに平沢の過去の所業は凄まじい。だからといって帝銀はさすがにまさかと誰もが思うところでもあったようだが、瞭子はもちろん自分の父がそんな人間と知っていた。毎年必ず二度や三度は揉め事を起こし、警察沙汰や訴訟沙汰にまでなりながら〈文展無鑑査の偉い画家〉の御威光(ごいこう)で罪を逃(のが)れてきたのだ。
帝国主義の時代だったことがそれを許したようでもある。お上(かみ)に決して逆らうな、と言いながらにそのオカミ(政府)の人間らもエッヘンオッホンのなんだか偉そうな相手に弱い。それが帝国主義であり、それに乗じて小狡(こずる)いことをさんざんやらかしてきたのが平沢貞通という男。
それが霧山警部補の下で古橋ら名刺班が捜査で掴んだ話であり、民主主義となった今も世の中はたいして変わっているわけじゃない。そして平沢の妻と子は、亭主が何かしでかしては自分だけ逃げて愛人の許にシケ込み隠れてしまうためにひどい迷惑を度重(たびかさ)ねて蒙(こうむ)ってきたようだった。
だから瞭子は自分の父を憎むようになっていたし、『帝銀の犯人では』と疑うようになっていた。だが同時にその考えがどうか間違いであってほしいと。
それもまた当然だろう。いくらなんでもあんな事件の犯人とは思いたくないに違いない。そこで古橋は一計を案じた。その心につけ入ることができると思った。
そうだ、騙すことにした。瞭子に言った。『お父さんが闇賭博に関係していたという話があるんですが』と。すると彼女は拍子抜けしたような顔をして、
『闇賭博?』
『ええ。草競馬のノミでイカサマをやって稼いでいたとか。いや、そんな先生がまさかとは思うんですが』
古橋が言うと顔が変わった。『父ならばやりかねない』という顔に。そして同時に『よかった。帝銀の犯人というわけではなかったんだ』という顔に。古橋の嘘にまんまと引っかかった瞬間だった。
『なんでもですね、そのうえ仲間を裏切って拾何萬かのアガリのお金をお父さんが持ち逃げしたとか。こんな話聞いておかしいと思われるかもしれませんが、お父さんについてそのような疑いを立てられる心当たりはありませんか』
と続けて言ってやると飛びついてきた。『あります』と答えたのだ。それどころか、
『父は2月にウチの母に捌萬圓のお金を渡して北海道に行ったきり、もう半年戻ってません』
『は? それは本当に、お父さんがそんなことやっているかもということですか』
『はい。父はそういうことをたくさんやってきた人間なんです』
瞭子は言った。帝銀事件の犯人よりは闇賭博の金を持ち逃げした男の方がはるかにマシという心理。あんな人間は一度刑務所に行ったくらいの方がいいんだという、ろくでもない父親がしてきたことの迷惑を受け続けた積年の恨み。そこにつけ入ることで古橋はこの情報を得た。
平沢貞通は帝銀事件の三日後に偽名で作った銀行口座に捌萬圓を預金している。その他に弐萬圓ほどを知人に借金を返すなどして遣(つか)っている。
それがそれまでの捜査で掴んでいた事実だ。それだけの大金を急に持った。事件前には無一文だったはずなのにだ。そして妻に捌萬を渡してるというのなら、8+2+8で合計拾捌萬圓となる。
帝銀の被害額がズバリ拾捌萬圓だ。聞いて古橋は身が震えたが、瞭子は続けてそれ以上に衝撃的な、雉の雛が親鳥を猟師の的場(まとば)へ追いやるのに等しいことを自分から話した。1月の28日つまり帝銀事件の日の二日後、家に電報が来たという。



