粧説帝国銀行事件
ツケ
「写真であなたを見たわ」瞭子は言った。「なんとかグラフっていう雑誌――お父さんを抱えてた刑事。あれ、あなたよね」
「うん……」
と言った。言うしかなかった。そんな写真がグラフ雑誌に載ったことは知っている。それも小樽から東京に平沢を護送する途中、函館で撮られたものだろう。それはつまり、この子にすれば、古橋があの約束を守るつもりが最初からなかった証拠ということになる。
そしてもちろん、その通りだった。約束を守るつもりがないどころか、最初から騙すつもりで近づいていた。いや、〈最初から〉というほどではないにしても、なんとかして情報を引き出すつもりで近づいていた。たとえこの子を騙すことになったとしても。
そうだ。そのつもりでいた。そしてこの子が父親を憎んでいるのを知ってそこにツケ入った。ツケ入りはしたが、
「その」と言った。「君には悪いことをしたと思ってる」
「『思ってる』ですって?」泣き笑いの顔になった。「嘘よ。あたしのことなんて忘れてたでしょ。いま忘れてたじゃない。忘れてたよね。あたしのこと今――」
「い、いや。違うよ。君だとはちょっとわからなかっただけだ」
「『君』なんて呼ばないで! あなたなんかに『君』だなんて呼ばれたくない!」
「わわわ、わかった。謝る。謝るから落ち着いて」
「『謝る』。謝って済むと思うの? あたしこれからどうすればいいの? ねえ、どうやって生きてきゃいいのよ!」
「それは……」
言ったが、そこで言葉に詰まった。『知らない』としか言いようがないが、言ってしまったら人間としておしまいだろう。謝って済むものでないことを古橋がこの子にしたのは事実であり、それはこの子の父親が帝銀事件の犯人かどうかというのと関係がない。自分はひとりの人間として許されぬことをこの子にしている。
だからやっぱり人としておしまいだった。どうすりゃいいのか、と思いながら、スーツの男とジープのドライバーに眼を向けた。ふたりとも、あさっての方を向きながらこちらを窺っているようすだ。『なんだか知らんがおもしろいことになってきたみたいだぞ』という考えがありありと見える。
「ええと……」
と言った。平沢瞭子。今はたち(二十歳)だというこの娘に、古橋はひと月ほど前初めて会った。その父親が帝銀事件の犯人である情報を得るためだったがそんなことは言えないから、ひとつ口実を設けていた。ええと、あなたのお父さんは名のある画家だそうですね。そんなお方に限ってとは思うのですが……。
言うとこの子は身を強張らせた。そうだ。やはり最初から騙すつもりで近づいたと言われたとしても仕方がないが、古橋としてはこのときはまだ探りを入れただけのつもりだ。しかしこのとき、この子は既に、自分の父があの事件の犯人と半ば確信していたらしい。
それも当然と言えるだろう。事件の後で出た似顔絵は、平沢貞通によく似ていた。その後に出来たモンタージュ写真は、さらにその画家にそっくりだった。そしてこの子の父親は、事件直後から東京を離れ、家族も建築中の家も放って北海道に行ったきりとなっている。
半年もだ。この時点で『犯人と思うな』と言う方がおかしいくらいの話だが、『平沢が犯人じゃないか』という噂はこの画家を知る者のあいだでやはりささやかれていたようだ。知る人間のあいだで決して評判のいい人物でなく、それどころか『あいつには関わるな。いつかそのうちとんでもないことしでかすに違いないからな』と付き合ってひどい目に遭った百人が百人とも言う人間だった。
それほどまでに平沢の過去の所業はすさまじい。だからと言って帝銀事件はさすがに『まさか』というところでもあったようだが、この子ももちろん自分の父がそんな人間と知っていた。毎年必ず二度や三度は揉め事を起こし、警察沙汰や訴訟沙汰にまでなりながら、〈文展無鑑査の偉い画家〉という肩書で罪を逃れてきたのだ。
帝国主義の時代だったこともそれを許したらしい。『お上(かみ)に決して逆らうな』。だがそのお上も、エッヘンオッホンのなんだか偉そうな相手に弱い。それが帝国主義であり、それに乗じてこずるいことをさんざんやらかしてきたのが平沢。
だというのが霧山警部補の許で古橋ら〈名刺班〉が捜査で掴んできた話で、民主主義となった今もたいして変わっているわけじゃない。そして平沢の妻と子は、亭主が何かしでかしては自分だけ逃げ愛人の許にシケ込み隠れてしまうために、ひどい迷惑を度重ねて蒙ってきたようだった。
だからこの子は自分の父を憎むようになっていたし、帝銀事件の犯人だとも思うようになっていたようだ。だが、同時にその考えがどうか間違いであってほしいと。
当然だろう。いくらなんでもあの事件の犯人とは思いたくないに違いない。そこで古橋は一計を案じた。その心理にツケ入ることができると思った。
そうだ。騙すことにした。この子に言った。お父さんが闇賭博に関係しているという話があるんですが、と。
『闇賭博?』
この子が訊くので、
『ええ。イカサマ麻雀で、何人もの人から大金を巻き上げていたという。いや、そんな偉い画家の先生が、まさかとは思うんですが』
古橋が言うとこの子の顔が変わった。『あの父親ならやりかねない』という顔に。そして同時に、『よかった。帝銀の犯人というわけではなかったんだ』という顔に。古橋の嘘にまんまと引っかかった瞬間だった。
古橋は続けて、
『なんでもですねえ。そのうえ、仲間を裏切って、何拾萬とかいうアガリのお金をお父さんが持ち逃げしたとかなんとかいう。こんな話、聞いておかしいと思われるかもしれませんが、お父さんについて何か、そんな話を立てられるような心当たりとかありませんか』
と、言ってやると飛びついてきた。『あります』と応えたのだ。それどころか、
『父は2月にウチの母に八萬圓のお金を渡して北海道に行ったきり、もう半年戻ってません』
『は? それは本当に、お父さんがそんなことをやっているかもということですか』
『はい。父はそんなこと、たくさんやってきた人間なんです』
この子は言った。〈帝銀事件の犯人〉よりは、〈イカサマ麻雀のカネを持ち逃げした人間〉の方がよっぽどマシという心理。『あんな人間はいっそのこと、一度刑務所に行ったくらいの方がいいんだ』という、ろくでもない父親がしてきたことの迷惑を受け続けた積年の恨み。そこにツケ入ることで、古橋はこの情報を得た。
平沢貞通は帝銀事件の2日後に、偽名で作った銀行口座に八萬のカネを預金している。その他に、知人に借金を返したりなんだりかんだりで弐萬か参萬。
それだけのカネを急に持った。事件前には無一文だったはずなのにだ。そして妻に八萬を渡したというのであれば、合計拾八か拾九萬圓。
帝銀事件の被害額が拾八萬弐千圓。事件直後にほぼ同額を手にしてその出所が不明――古橋が掴んだこのネタが、裁判所がオフダ(逮捕状)を出したいちばんの理由になったかもしれない。
まずは自分ら〈名刺班〉の勝利だった。だが、そのために古橋は、平沢を逮捕に行く前この子にひとつ約束をせねばならないことになった。