粧説帝国銀行事件
犬
行李が弾けて中身が散った。紙や絵の具や筆などなど。落ちた高さは1メートルちょいであり、下は土でさして固くもなかったが平沢はこれで死ぬんだと一瞬思った。
衝撃で気が遠くもなりかけたが、地面に寝てはいられない。落ちたのは裏隣りの敷地であり、逆側よりはよかったがこれで逃げられたわけじゃないのだ。塀の向こうで「逃げたぞ、追え!」と声がする。
カメラマンどもに違いない。逃げたんじゃなくて落ちたんだ、お前らのせいで!と言いたかったが言っても無駄で、追ってきてまた撮られるに決まっている。
逃げるしかない。鞄を捨て、散った物も拾わずこの身ひとつだけで。
平沢は立った。いや、立とうとしたのだが体が言うことを聞いてくれない。ヨタヨタとしているところに「いたぞ!」という声が聞こえる。
塀の上に人間の頭とカメラが並んでいた。またボンボンとフラッシュが焚かれる。
平沢はやっと立ち上がり、よろめきながら駆け出した。その背中をまた撮られることになるがかまってはいられない。
ブン屋どもはこの自分の今のザマをただ撮りたいだけだろう。だがそれとは別の集団らしき声も聞こえてきたのだ。
「平沢が逃げた? 本当か!」「どこだ! どこへ行った!」
と。それから、
「家の向こうだ!」「追え! 逃がすな、ブチ殺せ!」
そして足音。ドドドドド、と地を揺るがす振動と響き。
家の表で刺してやる吊るしてやると叫んでいた者達に違いない。狩るべき首が逃げたと知って門を破り向かってきたのだ。
そうしてすぐに、
「あそこか!」「野郎、よくもよくも!」
という声になる。塀に並んだカメラマンらが逃げる自分を撮っているのを見つけたのだろう。
すぐに塀を乗り越えて追ってくるに違いなかった。捕まれば何十もの足で蹴たぐられ、木に吊るされるか死ぬまで棒で殴られるか、竹槍でブスブス突かれることになるのだ。
その光景を想像し、平沢は恐怖で腰が抜けそうになった。もつれる足を必死に動かして前に進む。
その時だった。「あれかーっ!」という声が聞こえた。リンチ処刑の集団に遂に自分を見つけられたに違いない。
「わわ」
と言って平沢は走った。家のぐるりをまわってこの宅の庭へ。するとそこに、
「ワンワンワンワン!」
犬がいた。平沢に向かい吠え立ててくる。
「わっ、なんだこいつ」
とりあえず足を使って追い払ってやろうとした。けれどもガブリ。その脚に喰いつかれる。
「ぎゃーっ!」
と平沢は叫んだが、犬は咬みついたまま離さない。脚を踏ん張りガルルと唸って平沢の身を引っ張りにかかる。
「よせ、やめろ。このやろ、このやろ」
言ったが聞くわけもないことだった。平沢は犬が怖かった。画家としてまだ売れていた若い頃、マサが飼ってた犬が狂犬病になったのを棒で殴り殺そうとしたらなかなか死なずに咬みつかれ、息の根止めるまでに何度も打たねばならなかったことがあるのだ。結果自分も狂犬病の注射を射たねばならなくなったが、副作用で死にかけて何ヵ月も入院する羽目になった。
以来ずっと犬が怖い。この話を人にすると「先生それはいつもの嘘でしょ」とよく言われるがこればっかりは本当のことで、絵を描く指もそれからうまく動かなくなった。妻のマサには「ポチの祟りね。あなたはあの時死ねばよかったのよ」と言われるが、本気でそう言ってるのがわかる。
とにかく犬が怖いのだ。ただでさえそうというのにこの状況でスッポンのように離れぬことで、平沢は心に恐慌をきたした。見れば傍らに鉢植えの棚があり、盆栽などが並んでいる。ひとつを取って犬に叩きつけてやった。
「ぎゃん!」
とその犬。またそこで、
「いたぞ!」
という声がした。自分を殺そうとする者達がこの庭にまで追いついてきたのだ。
そして一緒にブン屋もいる。またボンボンとフラッシュの閃光。
「何を!」
と平沢は叫び、鉢植えを取ってそちらに投げつけた。一個ではなく二個三個。さらに続けて四個五個。
それをまたまたカメラマンが撮る。投げた鉢にはトゲが生えたサボテンのもあり、当たった者がぎゃっと叫んだ。
その隙に平沢は庭を突っ切った。もう脚はよろけていない。この庭は外の道と生垣で区切られていたが、そこに突っ込んで木と木の間を無理に抜ける。
道に出た。道というより路地だがそこをスタコラと走り出す。後ろで「追えーっ!」と声がして、何十という人間が生垣を破る音が聞こえた。