粧説帝国銀行事件
栄螺
夜は若く、彼女も若かった。夜の気分は甘いがしかし、彼女の気分は苦かった。『苦い』と言うより酸(す)っぱいと言うか、苦酸(にがず)っぱい気分と言うか。
みかんと思って食べたものが食用にならない柑橘(かんきつ)だったような、そんな苦く酸っぱい気分だ。瞭子は今、濠(ほり)に挟まれた広場にいた。ふたつの崖に挟まれた海峡の中に造られた浮島のように思える場所。
しかし広い。広場だから広いのは当たり前だがそれにしても広い。それも当たり前だった。瞭子がいるのは皇居前広場だ。一方には皇居の石垣。もう一方に明治のビル群。そのふたつが長く続いてふたつの断崖のようになり、瞭子が今いるこの場を挟み込んでいる。
濠端には木が並び、その下にたむろしている人影が見えた。多くは男女のカップルらしい。男はみな進駐軍のGIで、女は日本の〈サザエさん〉。
栄螺(さざえ)の殻を頭にのっけたようなパーマをかけているからサザエさんだ。それに対して瞭子のように髪を短く、戦前には〈モガ〉と呼ばれた女みたいにしている者は今では〈ワカメちゃん〉と言われる。広場はサザエ頭ばかりで、ワカメ頭は瞭子以外にひとりもいないようだった。行き交うサザエ女達が、すれ違いざまに自分を見る。その視線を瞭子は感じた。
どの女も『何こいつ。ここがどういう場所か知らないんじゃないの。間違って入ってきたのかしら』という眼だ。もちろんそうだった。間違って入ってきたのだ。皇居前広場が今はどういう場になっているのか知らないわけではなかった。話には聞いていたし自分が行くところじゃないと考えていた。
今日までは。けれども今日に瞭子は帰るところを失くした。家に帰ると門の前は人だかりで、『犯人だ、犯人だ』『実験だ、実験だ』とわめく者らが互いを罵(ののし)り合っていた。自分の父親を殺してやる、この家にも火をつけてやると叫ぶ者。対して『無実』と返す者らもGHQの陰謀だから無実ということにしたいだけで、父を無実と考えているわけではこれっぽっちもない。
それがはっきりと見て取れた。そんなところに『わたしはあれの娘だ』と言って入っていけるわけがなかった。だから逃げ出し、行くところなく、ここへ来たのだ。皇居前。濠に挟まれた片一方は石垣の上のところどころにサムライの時代の城そのままな櫓(やぐら)が覗く。その反対は帝国主義を剥き出しにした明治時代のビルが並ぶ。その谷間。かつては軍隊が行進し、何十万という民が旗を振って送る場だったこの広場は、今は進駐軍の男と日本の女とが出会いを求めて集まる場となっている。
そんな話は聞いていたし、濠の外から横目に眺めて通り過ぎたこともあった。けれど自分が入っていく場所じゃないと思っていた。
これまでは。しかしそこに石橋を渡っていま入ってきている。サザエ女の『なんでこんなところにワカメが』という視線を浴びながら――しかしその一方で、
「カワイイデスネー、ドコカラキタノ?」
と片言(かたこと)の日本語を話し、寄ってくる者もいた。白人の男。そうでなければ男はここに入れぬのだからそうに決まってもいるのだが、彼らにすればワカメ女は珍しいものなのだろうか。
それとも、街で見かけても、サザエと違って声をかけづらいものなのだろうか。それがノコノコとこの場所へ自分から入り込んできてくれた――そうとでもいった顔して何人かが集まってきた。
「オナマエハ?」「イクツデスカ?」
などと口々に言う。中には「ハンバーガー、タベタコト、アリマスカ?」なんてことまで言うのがいたが、
「え、あの」
と応えた。PXで働いていたから白人には慣れているつもりだった。だが違う。ここにいるのは自分が知る白人じゃない。
別の何かだ。そうと気づいて、救いを求めてまわりを見る。けれどもサザエ女達は、『ふん、何よ』といった顔でソッポを向いた。
ワカメ女が来るとこ間違えて入ってきたと思ったら、男の注目を集めている。それがどうやらおもしろくない様子に見えた。『いい気味だ』と言いたげな眼をこちらに送る者もいる。
ゾッとした。まずは近くにいた男が数人寄ってきただけだが、少し離れたところからも、ちょっと変わったことが起きたのに気づいた様子の男達がなんだなんだとこちらに足を向けたのがわかる。さらにもう少し離れた場所から。そしてさらに離れた場所から。
そうやって、この広場の全体から男が来そうな感じになった。
そんな、と思う。やがて千人の男に自分は取り囲まれてしまうかもしれない。
そう考えていよいよゾッとし、「ごめんなさい」と慌てて言った。踵(きびす)を返し、元来た方に戻ろうとする。
その途端に足がもつれた。後ろにいた男にぶつかる。
「Wow」
と相手。軍服姿のそいつはビクともしなかったが、こちらは地面に転倒しかける。
だがなんとか踏みとどまった。小走りに橋を目指して駆け出したが、
「Hey!」という声が後ろからした。「You forgot your bag!」
『鞄を忘れたよ』――そう言われたのに気づいて振り向く。ぶつかった男が小さなバッグを手にしていた。
瞭子のものだ。当たったときに落としたのを拾ってくれたのだとわかる。
「あ」
と言って、瞭子はおずおずと引き返した。「ごめんなさい」とまた言うと、相手は「ドーイタシマシテ」と応える。
差し出してきたバッグを受け取る。その時だった。
「あはは、なーにあれ」
声が聞こえた。サザエ女が何人も、自分を見て笑っていた。
瞭子は黙って身を翻し、笑い声を背に聞きながらまた駆け足で橋に向かった。それを渡れば〈Aアヴェニュー〉と今は呼ばれている道だ。その向こうには〈ダイイチ・ビル〉がそびえている。いかにも『陛下の世は千代に八千代に巌(いわお)となりて苔の生(む)すまで』と言いたげな意匠だが、しかし今はGHQ本部。マッカーサーの城となっている建物。
そちらに向かって走りながら、瞭子はなんでこんなことになるのと思った。あたしに関係ないじゃない。あたしは何もしてないじゃないの。なのにどうしてこんなことに。
あいつのせいだ、とも思った。こうなったのはあいつのせいだ。あの刑事。古橋といった。あいつの嘘のためにこんな――。
自分に近づき、騙した男の顔を思い浮かべながら石橋を渡り、Aアヴェニューへ。その時だ。通りの向こう、マッカーサーのビルからひとり、男が出てくるのが見えた。