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粧説帝国銀行事件

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「いや……」と言った。「ちょっと待ってくれ」
 
「ほう」とセバスチャン。「選択の余地はないと思っていましたがね」
 
「否応なしか」
 
「そうじゃない。あなたにとってもいい話なんじゃないかと言うのですよ。帝銀事件を誰がやったとあなたは思っているんです?」
 
「平沢だよ」
 
「でしょう。だが釈放され、これ以上捜査するなと命じられた。だから今のあなたには平沢を追うことはできない」
 
「それは……」
 
「それをわたしが変えてあげようと言ってるんです。ひょっとするとあなたに手を貸すことが世界を救うことになるかもしれない。この日本の隣で今、新しい国が生まれようとしてる話は聞いていますか」
 
「ええと」と言った。急に話が変わったことに戸惑いながら、「朝鮮のこと?」
 
「そう。南朝鮮はこのあいだから大韓民国となったけれども北はなんと名乗るんでしょうね。キムチ共和国かな。そのための会議が今日に始まったそうですが」
 
「うん……」
 
と言った。そんな話はまあ聞いている。長く日本の支配を受け、戦後アメリカとソ連によってふたつに分けられた朝鮮半島。日本と同じくこの三年間それぞれ占領されてきたが、南半分は半月前に韓国として独立した。
 
そして北側も独立が認められようとしてるらしい。そんな話は聞いていたが古橋にはまるで理解不能だった。
 
「それがなんだ?」
 
「直接の関係はありません。だがとにかく、これから何日かのうちに隣の半島の北側が新たな名前を名乗って建国を宣言することになる。その頭(かしら)は金日成(キムイルソン)になると見られる――四ヵ月前に中東でイスラエルという国が生まれましたね。結果どうなったかも知ってますか」
 
「まあ」
 
と言った。戦争だ。イスラエルを認めないアラブ諸国がその日のうちに攻撃を開始。殺し合いになってるという。
 
なってるというが古橋にはやはりサッパリな話だった。だから首を捻るしかない。
 
「来週に隣で戦争が始まるのか」
 
「わかりません。でも〈何か〉は起こるでしょう。いろいろと悪いことがね。人は愚かで、憎み合い、悪いことは金になる。だからいろいろ悪いことが起こるでしょう。帝銀事件はそれに直接の関係を持つわけではないですが、間接的な関係なら持つかもしれないと思うんですよ」
 
こういう話はこうだから聞いてさっぱりわからないのだ。古橋が首を傾げたままでいると、
 
「たとえばこの日本には在日朝鮮人というものがいるでしょう。関東大震災のあと何が起きたかも知りませんか」
 
「まあ」
 
とまた言うしかないが、セバスチャンは、
 
「ねえ。何が起こるやら知れたものでないわけだ。帝銀事件の四日後インドでガンジーが暗殺されました。これも関係ないけれどしかし関係ないわけじゃない」
 
古橋は黙って頷いた。セバスチャンはさらに続けて、
 
「関係があるということにしようとする者がいるから。ヒンズー教徒の仕業だったが背後にイギリスのスパイ組織がいることにされる。そして帝銀事件とも繋がりがあることにされる」
 
「うん……」
 
「わかってきたでしょう。なんでもかんでもそういうことにしようとするのが多くいるから第一次世界大戦が起きたわけだが、オーストリアは敗けても懲りずにナチスと組んで第二次大戦をやる始末だった。日本では大正の震災の後でデマが生まれたといいますね。在朝人が井戸に毒を入れてるとか、暴動を起こしているといった……」
 
古橋はまた黙って頷いた。その背景には日本の朝鮮支配がある。朝鮮人は半島から連れてこられて奴隷のように扱われていた。ために抵抗運動があったが、地震によって焼けた街で「この機に乗じてやつらが独立戦争を始める」というデマが立ち、新聞がそれを事実として書き立てた。
 
東京は殺戮の場と化している。軍と戦闘も始まっている。震災に乗じてやつらは東京の軍を襲い、武器を奪って仲間を集め日本全土を焼き尽くそうとし始めたのだ――。
 
なんてことを新聞が書いたが、それも政府が確かな事実ということにして記者に発表したからだ。やつらは強く、大砲もガトリングガンも奪われました。助かる道はもうひとつしかないでしょう。東京都の外にいてやつらと合流していない在朝人を殺すのです。ひとりたりとも生かしてはなりません。女や子供も決して容赦してはならない――。
 
そう新聞が書いて出し、千葉や埼玉で信じた者が朝鮮人を殺しまくった。その虐殺の犠牲者は数千人になるという。
 
古橋がまだ幼い頃だ。政府の嘘をブン屋が大きく膨らませ、民衆が読んでまた信じる。それで戦争に敗けときながら何も変わることがない。
 
いや本当はブン屋の方が役人に、朝鮮人が反乱を始めたのはほんとですよね、日本は神国なのだからこの戦争に勝ちますよね、帝銀事件はアメリカの毒の実験なんですよねと百人で詰め寄って「そうだ」と言わせてるのかもしれぬが、それはタマゴが先なのかニワトリが先なのかということだろう。
 
セバスチャンが酒のグラスをもてあそびながら、
 
「セルビア人の狂信者がオーストリアの皇太子を暗殺すると第一次世界大戦が起きた。帝銀事件も日本の皇族を鏖(みなごろし)にしようとする朝鮮人の実験だなんてことを言う者が出た。それを言うやつは腕章着ければそこに見える御殿に裏から入っていけて居る者みなに毒を飲ませられると本気で思うわけです」
 
窓の向こうを指して言う。古橋が「はは」と笑うと、
 
「ねえ、笑っちまうでしょう。しかしこれが海を渡ってアメリカで信じるやつが出てるんですよ。〈確かな話〉ということになって伝わってるんですから……他にもありとあらゆる国でね。セルビアにもオーストリアにも信じる者がいるわけだし、オーストラリアにも信じる者がいる。インドではイスラム教徒とヒンズー教徒がどっちも信じてしまっているし、中東ではユダヤとイスラムが信じている。テーギン事件は我らの敵が極東でやった実験だ、と」
 
「いや……」
 
と言った。しかし二の句が継げられない。
 
セバスチャンは笑いながら、
 
「それが人間というものです。世界のどこでも人は隣のナントカ人を憎んでいて、根絶やしにせねばこちらがやられると考えている。敵はついに完璧な抹殺法を編み出した。テーギンがそれだ。腕章を着けて裏口からひとりで入るやり方は完全だからやられたら俺も疑わず飲むだろう。実験でそれが証明されたからには敵はすぐにもこちらに対しそれを使うに違いない。だからもうおしまいだ。助かるにはやられる前にこっちが打って出るしかない、と――震災の後のデマと同じでしょ。そんな話を世界じゅうの酒場なんかで酔っ払いどもが今してるわけ」
 
「え?」と言った。「待てよ。酒飲みの話なのか?」
 
「ナチスも元はそんなクダ巻きの集まりですよ。そこにある時ヒトラーが入っていったんです。ヒトラー自身は酒を飲みませんでしたが」
 
「いや、でも……」
 
「そう。普通の人間はそんな話を相手にしない。しかし何がきっかけで変わってしまうかわからない。東宝の争議の件も知ってるでしょう。ベルリンの封鎖も。今はそういう時です。帝銀は何か大きな事の引き金になってしまうかもしれない」
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之