粧説帝国銀行事件
否応
「いや……」と言った。「ちょっと待ってくれ」
「ほう。選択の余地はないんじゃないかと思うんですがね」
とセバスチャン。天井ではファンがまわり続けていて、目の前に置かれたままのグラスからはウィスキーの甘い香りが立ち昇っている。古橋は言った。
「否応なしか」
「そういうわけじゃない。あなたにとってもいい話なんじゃないかと言うんですよ、フルハシサン。帝銀事件を誰がやったとあなたは思っているんです?」
「平沢だよ」
「でしょう。だが釈放され、『これ以上の捜査はするな』と命じられた。『GHQの実験なのだ。それを暴いてマッカーサーのやつに突きつけ、世界中に知らしめるのだ。そうと決めたことなのだからそうではない捜査はするな』ということになったわけでしょう。だから今のあなたには、平沢を追うことはできない。違いますか」
「それは……」
「それをわたしが変えてやろうと言うのですよ。ひょっとするとあなたに手を貸すことが、世界を救うことになるかもしれない。どうやら今、この〈ニッポン〉の隣で新しい国が生まれようとしているらしい。そのニュースは聞いてますか」
「まあ……」
「〈南朝鮮〉はこのあいだから〈大韓民国〉と呼ばれるようになったが38度線から北はなんと名乗るんでしょうね。〈キムチ共和国〉かそれとも〈カルビ共和国〉かな。そのための会議が今日から始まったという」
そうだ。そんな話は聞いた。長く日本の支配を受け、戦後はソ連に占領されてきた朝鮮半島の北半分。それがどうやら来週にも独立し、〈国家〉となるらしいのだが、古橋には正直なところ何がなんだかサッパリだった。だから首をひねるしかない。
「それがなんなんだ?」
「直接の関係はありません。だがとにかく、これから何日かのうちに朝鮮半島の北側が新たな名前を名乗って建国を宣言することになる。その主席は金日成(キムイルソン)になると見られる――4ヵ月前、中東で〈イスラエル〉という国が生まれた。生まれたがそれでどうなったのか、そのニュースも聞いていますか」
「まあ」
とまた言った。戦争だ。〈イスラエル〉の建国を認めぬアラブ諸国がその日のうちに攻撃を開始。殺し合いになってるという。
なってるというが、やっぱりまるでわけのわからない話だった。古橋はまた首をひねるしかない。
「来週に隣で戦争が始まるのか」
「わかりません。でも〈何か〉は起こるでしょう。いろいろと悪いことがね。人は愚かで、憎み合い、悪いことはカネになる。だからいろいろ悪いことが起こるでしょう。帝銀事件はそれに直接の関係を持つことはないでしょうけど、間接的な関係ならば持つかもしれない――いや、たぶん、持つんじゃないかと思うんですよ。日本の中にも〈在日朝鮮人〉と呼ばれる人間が多くいて、帝銀事件の話もしている。関東大震災の後、何が起きたかも知りませんか」
「ふうん」
と言った。今度は首をひねらなかった。セバスチャンは、
「わかってきましたか? ではもうひとつ。帝銀事件の4日後に、インドでガンジーが暗殺された。ヒンズー教徒の仕業だが、『イギリスの情報部が仕組んだこと』との噂がたてられている」
「ヒンズー教徒がそういうことにしようとしている」
「そうです。帝銀も同じでしょう。あなたは平沢を見つけたが、『アメリカの情報部が仕組んだこと』との噂がたてられてきた。日本の中で何か起きればそういうことにすぐしようとする者達が、そういうことにしようとしてきた。自分では名探偵のつもりでいるから、画家が犯人では都合が悪い」
「あんたには都合いいんだろ」
「そうだが、あなたはどうなんです。今のままでは困るんじゃあないですか。平沢に間違いないと思ってるんでしょ。それを世にわからせたくないんですか」
「それは……」
と言った。セバスチャンはニヤリと笑い、
「ならばわたしとあなたの利害は一致するわけだ。選択の余地はないでしょと言うんですよ。我々GHQと言えど日本の警察に命令する権限は持たない。平沢をまた捕まえて、無理矢理にでも『やった』と言わせて吊るして終わりにしてしまえ、と言うことはできない。それは越権行為だし、そうでなくてもいろいろとまずい」
「まあ」
と言った。セバスチャンは、
「わかるでしょう。そこであなただ。ひとりの刑事をマッカーサーの特命捜査官として指名し、日本警察とは別に独立して動く権限を与える。我々にできることはその程度。あなたが誰に目星をつけて事件を追うかは知らない、ということにする」
「いや」と言った。「待てよ。そんなこと言うが……」
「そう。名刺班の一員で、平沢に手錠を掛けた刑事のひとりであるあなたを選んでその言い分は通らんでしょう。しかし事件解決には、これしかないと判断した。これはほとんど達成不可能な任務だが、やれるとしたらあなたしかない。そして、悪いがあなたには、結果あなたがどうなろうと我々GHQ当局は一切関知しないからそのつもりで、と言わねばならない」
などと言いつつセバスチャンはニヤニヤ笑い続けている。古橋が何も返せずいるうちに、
「だが、あなたは刑事の仕事を命懸けだと言うんでしょう。『俺はいつも命懸けでホシを挙げてきたのだし、平沢を捕まえて東京へ連れてきたのも命懸けだった』と」
「それは……」
と言った。言ったがやはり、続く言葉を見つけられない。確かにそんなことを、平沢を護送したとき津波のように押し寄せてきたブン屋に向かって大声で叫び立てた覚えはある。
セバスチャンは、「それならひとつ、命懸けの仕事ができるところを見せてくれませんか。事がこうなった以上、平沢をまた捕まえるには決定的な証拠が要る。これはほんとに命懸けになるかもですが、あなたにそいつを見つけてきてほしいわけです」
「わかるよ」と言った。「だが……」
「とても難しい。それもわかっているつもりです。おまけに、何を見つけても『GHQのデッチ上げに違いない』と言われるでしょう。となれば……」
「なんだ?」
「それを元に平沢から全面自供を取らねばならない。ええとなんと言いましたっけ、あなたがたの隠語で……」
「完落ち?」
「それだ。自白が〈カンオチ〉ならば、後で〈イチャモン〉はつかんのでしょう。確かに平沢の犯行だと世にわかって誰にも文句は言わせんようにすることができる。もちろん、まずその前にこれまで以上に強力な証拠を見つけてもらわなければならんがしかし、それができればあなたが平沢の尋問もでき、今度は誰にも邪魔はさせずに済むわけです。〈マムシのナナ〉と呼ばれる腕でナントヤラ病の嘘つき男を落とせるか、という話でもあるわけだ。フルハシサン。これもあなたに命懸けでやってみせてほしいんですよ」