粧説帝国銀行事件
姿勢
「『逃げる』って、どうすんの。どこへ行くつもりなのよ」
とマサが言う。平沢は応えて言った。
「知らん。知らんが、逃げるしかないだろう。ここにはとてもいられんのだからな」
「逃げられると思ってんの」
そう言われると困るがしかし、もう逃げるしかないものは、もう逃げるしかないではないか。そうだろう――平沢は窓の向こうにある庭を見た。この家を建築中の仮住まいにしていた小屋がまだ残っている。玄関側と違ってこの庭側に無実だ犯人だと叫び立てる者はいない。
庭の向こうは裏隣となっている。だからそっちでは人は叫べぬし石を投げることもできない。当然のことだ。塀を越えて裏隣の敷地を抜ければ、表(おもて)のやつらに知られずに向こうの道に出られるのではないかと思った。
それで逃げられるのではないか。いま逃げ出せば終電の頃にはかなり遠くまで行けるのじゃないか。
それで行方をくらましてしまえる。うん、完璧な考えと思った。つまり逃げるなら今だ。今すぐだ。
と思ったが、
「逃げた後でどうする気なの」
とマサが言う。平沢はまた応えて言った。
「うるさい。後だ。逃げた後で考える。おれは逃げるぞ」
「いいかげんねえ。いま以上に立場を悪くするだけじゃないの?」
「何を言ってる。おれは無罪放免の身だぞ」
「そうなの? あなた、『放免』て言うけど、完全に無罪放免の身なの?」
「こうして娑婆に出てるじゃないか」
「そりゃ、出てはいるけどさ。たとえば詐欺のお金とか、返さなきゃいけないんじゃないの?」
「検事は何も言ってなかった」
「あなたが聞いてないだけじゃないの?」
「うるさい。とにかくそんなカネ、返そうたって返せんのだから逃げるしかないだろう」
「不思議なんだけど、どうしてあなた出て来れたのよ」
平沢にもわからない。しかし出て来れたのは出て来れたのだ。出ては来れたがただ『釈放』と言われただけ。
マサが言う通りだった。本当の無罪放免なのかどうかもわからぬ。仮釈放とか、保釈とか、言葉はいろいろあるようだけどどう違うかの区別も知らぬ人間としては、今の自分が法律的にどんな立場にあるかの見当もつかぬのだ。いつまたやっぱりあいつが犯人に違いないのだからまた捕まえようという話にならぬと限らないのでないか。
そうだ、と思った。やはりここにはいられない。もう一度捕まったら二度と釈放されることはあるまい。裁判で有罪・死刑だ。
それ以外にない――そう思えた。アレコレと考えてられないのだからこのチャンスを逃(のが)さずにいま逃(に)げるのだ。他の道があるだろうか。
「逃げられると思ってんの」
とまたマサが言う。平沢は、
「うるさい!」
と言った。
「あたしはあなたがどうなろうと、別にいいんだけどさあ」
「あーあー、どうせそうだろうな」
「心配なのは瞭子(りょうこ)なのよ。今、どこでどうしてるのか……」
「リョーコ?」
と言った。ハテ、どこの誰のことかなと思ったが、
「あなた、まさか瞭子のこと、忘れてんじゃないでしょうね」
「いや、そんなことはない。うん、そんなことはないぞ」
と言った。平沢の娘だ。ふたりいるうちの妹の方。歳は18か19か、20か21歳になる。長女は結婚して家を出ているが、次女の瞭子は7ヵ月前、最後に会ったときには庭の仮住まいで暮らしていた。
この窓から今そこに見えるあの小屋で。あの頃はいつもあそこに灯が点いていた。帰れば瞭子がいたからだが、しかし今その窓は真っ暗だ。
それは娘が今ここにいないということになるが、
「その顔は忘れてた顔よね」
「うるさい。瞭子はどうしてる。今どこにいるというんだ」
「それをあたしが知りたいのよ」
「なんだと、そんな無責任な。お前、それでも母親か」
「なんであんたにそんなこと言われなけりゃならないの。7ヵ月もずっと家を空けてたくせに」
「それは親父がずっと死にかけていたからだ」
「元気なんでしょ」
「うん」と言った。「しかしそれとこれとは別だ。瞭子は今どこにいる」
「だからあたしが知りたいの」
「お前、それは母親として、無責任だと思わないのか」
「ああもう」と言った。「いいわよ、もう。あなたどこへでも行きなさいよ」
「都合が悪くなるとそれか。その姿勢が無責任だと思わないのかと言ってるんだ」
「ほんとにもう……」
「瞭子にもしものことがあったらお前のせいだぞ」
「じゃあ探しに行ってくれない?」
「何を言ってる。おれはこれから、逃げなければいけないんだ」
「なんでそういう人間に、偉そうに言われなけりゃいけないのよ!」
「それもそうだな」認めた。しかし、「だがこのことは忘れんからな」
「あなたが何かを憶えてた例(ためし)があった気しないんだけど」
「それはお前が忘れっぽいということだろう。とにかく、おれは逃げる」
「行ってらっしゃい」
とマサは言った。