粧説帝国銀行事件
心配
「逃げる? 逃げるってどうすんの。どこに行くつもりなのよ」
とマサが言う。平沢は雨戸を少しだけ開けて外を覗いたところだったが、
「知らん。知らんが逃げるしかないだろ。ここにはとてもいられんのだからな」
「逃げられると思ってんの」
そう言われると困るがしかし、もう逃げるしかないものはもう逃げるしかないではないか。戸の隙間からは庭が見える。玄関側と違ってこちらに今は人影がない。
帰宅直後は庭にまで入り込まれて戸をガンガン叩かれたが、コール合戦になってからは出て行ったのだ。庭の向こうは塀を挟んで裏隣りの家となってる。住んでいるのは他人だから、それに向かって叫んだり石を投げたりする者はいない。
よってこちらに今は人の眼がないわけだ。今ならこの庭を抜け、塀を乗り越え裏隣りの敷地を通って脱出できるのではないか。それで終電の頃にはかなり遠くまで行けるのじゃないか。
そうして行方をくらましてしまえる。そうだ、早くしなければ今日の電車が無くなってしまう。グズグズはしていられない。逃げるなら今すぐなのだ。
と思ったがまたマサが、「逃げた後でどうすんの」
「うるさい。んなもん後で考えることだろう。おれは逃げるぞ」
「いいかげんねえ。いま以上に立場を悪くするだけじゃないの?」
「何を言ってる。これ以上悪くなんかなりようがあるか」
「それもそうなのかなあ」
言って黙った。納得したのかと思ったがしかしまたすぐ口を開いて、
「逃げられると思ってんの」
と同じことを言う。平沢がまた「うるさい」と返すと、
「あたしはあなたがどうなろうと別にいいんだけどさあ」
「あーあー、どうせそうだろうな」
「心配なのは瞭子なのよ。今どこでどうしてるのか……」
「リョーコ?」
と言った。ハテ、なんのことだろうと思ったが、
「あなた、まさか瞭子のこと忘れてんじゃないでしょうね」
「いや、そんなことはない。うん、そんなことはないぞ」
「その顔は忘れてる顔よね」
「だからそんなことはない」
と言いながら思い出せぬが、いや、そうだ思い出したぞ。おれの娘だ。ふたりいるうちの妹の方。歳は18か19だったか、20か21歳くらい。
だったと思う。長女のええと、そうだ静香(しずか)は結婚して家を出てるが、次女の瞭子は最後に見た時この家で暮らしていた。
――と、いいや〈この家〉じゃない。今この戸の隙間の向こうに見える掘っ立て小屋だ。七ヵ月前まだこの家は建築中で、工事は柱を組んだところで止まっていた。自分は仮住まいとして庭に建てたあの小屋に妻と瞭子と息子の勝也の四人でもって暮らしていた。
事件の後で北海道にいた間にこの家が出来たが、仮住まいのバラック小屋がまだ残っている。勝也のやつはおれが帝銀をやるちょっと前に家、と言うかあの小屋を出ていて、今はブン屋の取材に応えて「父は悪い人間でしたが、去年の秋から特にようすがおかしくなっていました。今年になっていよいよ何か良からぬことを企んでるのが窺えたので、係り合いになりたくなくてぼくは家を出たんです。そうしたらその十日後に帝銀のニュース。ええもちろん、聞いた途端に父の仕業だとわかりました」などと話しているらしい。
勝也はそういう息子だが、しかし瞭子はどうしたのか。落成したこの家で暮らしていたはずでないのか。なのに姿が見えないのはどういうわけか。
「瞭子はどうしてる。今どこにいるというんだ」
訊いたがマサは、「それをあたしが知りたいのよ」
「なんだと、そんな無責任な。お前それでも母親か」
「なんであんたにそんなこと言われなけりゃならないのよ。七ヵ月もずっと家を空けてたくせに」
「それは親父がずっと死にかけてたからだ」
「元気なんでしょ」
「うん」と言った。「しかしそれとこれとは別だ。瞭子は今どこにいる」
「だからあたしが知りたいの」
「お前、それは母親として無責任と思わないのか」
「ああもう。いいわよ、あなたどこへでも行きなさいよ」
「都合が悪くなるとそれか。その姿勢が無責任と思わないのかと言ってるんだ」
「ほんとにもう……」
「瞭子にもしものことがあったらお前のせいだぞ」
「じゃあ探しに行ってくれない?」
「何を言ってる。おれはこれから逃げなければいけないんだ」
「なんでそういう人間に偉そうに言われなけりゃなんないのよ!」
「それもそうだな」認めた。「だがこのことは忘れんからな」
「あなたが何かを憶えてた例(ためし)があった気しないんだけど」
「それはお前が忘れっぽいということだろう。とにかくおれは逃げる」
「行ってらっしゃい」とマサは言った。