粧説帝国銀行事件
リディキュラス
男はグラスの酒を飲み、それから言った。
「つまり委任状ですよ。あなたに仕事を頼みたい。マッカーサー元帥直々(じきじき)の指名という形をとってね。『シチベー・フルハシに重要な用務を委任する。関係各位に最大限の協力を求む。その遂行を阻害する行為に対してはうんぬんかんぬん。ダグラス・マッカーサー』というやつ。魔法の鍵ですね。それを持てたら今この日本であなたの前に開かぬ扉はないでしょう。GHQの用箋にそれをタイプしわたしのボスのサインをもらってあなたにあげようというんです。どうです、欲しくありませんか」
男の上でファンがグルグル回っている。古橋は立ったまま何も言うことができなかった。
男はグラスを振りながら、「コーヒーが良ければ持って来させますが」
「なんで……」
「あなたは若いですね。今29か。その歳で警視庁の捜査一課。マムシのナナの異名(ふたつな)を持ち、捕まえた犯罪者は数知れず――記録は読ませてもらいましたよ。そして平沢を捕まえた」
「おれじゃない」
「霧山警部補だ。あなたはその名刺班に自分から加わった」
「それは……」
「日本警察はあの事件を我々がやった実験と見ている。米軍の秘密機関が七三一の元隊員を使ってやらせたものとね。どう思いますか」
「バカバカしい」
「そう。わたしもそう言いたい。七ヵ月間、ずっと説得を続けてきました。バカな考えをやめて刑事らに別の線を追わせてくれと――そう言いつつ我々も、あなたがた名刺班に期待したわけでもなかったんだが」
グラスにまた酒を注ぐ。それから言った。
「ねえ、お願いします。こっちへ来てそこに座ってくれませんか」
「ああ……」
古橋は近づいた。怖がりな野良猫がエサにつられて恐る恐る人に寄っていく心境だった。
椅子を引き、回るファンを見上げながら腰を下ろす。それが実は鋭い刃物で、回転をギューンと上げて落ちてきて身を挽肉にされてしまうんじゃないかと思えて落ち着かない。
男も上に眼をやった。「これ、気になるなら止めましょうか」
「いい」
と言った。名刺を取り上げて見る。英字とともに日本語で名と肩書が記されていた。
GHQ SCAP−G2
連合軍最高司令部 公安部民間情報課
ジョン・F・セバスチャン
「セバスチャン?」
「どうぞお見知り置きを」笑った。酒のグラスを掲げて、「帝銀事件。確かに異常な事件ですね。我々も平沢の顔が出てくるまでは犯人を七三一の元隊員と考えていた。だから松井名刺からは何も出てこないだろうと――ただし事件の裏にいるのはソ連か中国と睨んでたんだが。七三一の隊員だった人間が毒を持って東側に亡命しようとでも目論(もくろ)んだ。あの事件は交渉相手に見せるための実証試験だったのじゃないかという考え方です」
「なんだと?」
「そんなふうに考えたことありませんか?」
「いや……」
「妙なものだな。七三一が犯人といえば、誰もがその裏にいるのは我々アメリカ軍だと思う。なぜわたしらがそんなことやらなければいけないのか。ソ連や中国の仕業(しわざ)という線を考えてみないのか――わたしは人に会うたびそう尋ねました。わたしはわたしの仮説の方がありそうだと思ってたんです。今となってはお笑いですがね」
言ってハハハと本当に笑い、また酒を飲む。それから続けて、
「困ったことに誰ひとり米軍の実験という考えを変えてくれなかった。情報部員のわたしがそう訊くこと自体が事件の裏にわたしがいる証拠とされてしまうわけです。『ソ連・中国はいい国だ。東に秘密などはない。どんな悪いこともしない。だがアメリカは悪い国。なのであるから帝銀はアメリカの実験なのに違いない。以上証明終わり』とね」
「うん」
と言った。グラスを見る。やっぱ飲むことにしようかな、と思った。
「我々は今この日本を占領している。信じてもらえないかもしれんが、別に好きで占領してるわけではない。必要だからしてるのですよ。一応はまああなたがたのためを思って占領してんだ。その我々がなんでまた帝銀みたいなことをやらなきゃいかんのか。ナンセンス。リディキュラス。わたしとしてはそう言いたい――英語の意味はわかりますか?」
「いや……」
「ま、〈バカバカしい〉ってことです。しかしこの国のインテリゲンチャはそんな見方をしてくれない。ロシア語の意味はわかりますか?」
「まあ……」
「この事件は我々の占領政策にとって思わぬ障害になっていました。そして日本の警察には解決できないと見ざるを得なかった。捜査本部の刑事もみんな米軍の実験という見方をとって、ただそれだけに的(まと)を絞った捜査をしている状況と知っては……だから絶望していました」
セバスチャンは言い、グラスを置いて、
「そこにあなたが現れた。この事件を解決できる者がいるならあなただけだ――我々はそう判断しました。古橋さん。マッカーサー元帥の指名を受けた探偵として、あなたに独自に帝銀事件の捜査をしていただきたい」



