短編集74(過去作品)
前を歩く女
前を歩く女
有吉智子にとっての生活感とは、どんなものだろう?
毎日会社に出かけ、男たちに混じって仕事をする。事務所にいる女性は、皆智子よりも年上、いわゆる「お局さま」ばかり。そんな中で男たちの目が智子に集中するのも、当然のことであった。
建設会社の事務員をしている智子には、CADオペレーターとしての資格を持っていることから、本人はキャリアウーマンのつもりで、颯爽と入社してきた。今でもその気持ちは変わっていないが、それでも、入社から一年過ぎ、さらに二年過ぎた頃には、気持ちがマンネリ化してしまっていることを否定できない。
「有吉さん、これよろしくね」
と、男性社員から仕事を頼まれても、その表情に浮かんでいる笑顔が、ぎこちなく感じるのはなぜだろう? 最初はまったく分からなかった。
それだけに、仕事にしても、すぐに話してくれればすむものを、なかなか話をしてくれないために、ほとんど進まないこともあった。それが智子にとって、当初の悩みの種だった。遠慮しているわけでもなく、ぎこちない態度、あたりを包む空気が重たく感じられるのだ。
一人暮らしの智子にとって、会社にいる時間が唯一、人と接することのできる時間である。それでもよかった。寂しい気分になるわけでもなく、仕事で疲れて帰って、また誰かの相手をしなければならないと感じることは苦痛だと思っていたからだ。
それでも、生真面目なところがある智子は、一人分であっても、必ず夕食は自分で作っていた。いくら遅くなっても、帰りに二十四時間開いているスーパーで買い物をして、帰ってから料理を作る。もっとも、その間にお風呂を沸かしたり、洗濯したりと、平行してできるので、それほど苦痛ではない。むしろ、自分の時間のための準備の時間と思うことができるくらいだ。
――自分の時間――
それは、寝る前に読む本のことだった。
元々恋愛小説が好きだった智子は、ロマンス文庫と呼ばれる恋愛小説のファンだった。青春小説のような恋愛小説、寝る前のひと時に想像力を高めるのが好きだった。続きを夢で見れるような気がするからだ。
ロマンス文庫は、恋愛小説の中でも読みやすい方である。元々読者層といえば、中学生、高校生が中心ではないかと思えるほど、初恋や、淡い恋が多く、せめてきわどくても、処女喪失の話くらいである。不倫や、社内恋愛などのドロドロした、昼メロ系の話ではないところが、智子の気に入っているところである。
普段から話し相手もおらず、かといって恋人もいない智子にとって、読書は唯一、人間関係について考えられる時間である。
――誰か男の人に抱かれたい――
と思った時に、自分が欲求不満ではないかという危惧を感じるが、まさしくその通りだろう。智子だって女である。男が欲しくて悶々とすることもある。そんな時、ロマンス文庫の小説を読んで眠りに就くと、夢で続きを見られるのだ。
心地よい夢から覚めた時、内容のほとんどは忘れていた。しかし、それでも最高の目覚めだったことには違いなく、ますます、眠りに就く前の時間だけが、自分にとっての唯一楽しい時間に思えてならない。その時間のために生活しているといってもいいくらいだ。
本を読んでいると本当に眠くなってくる。したがって、実際に寝る前に本を読んでいる時間というのは、半時間というところであろう。気がついたら寝ているのである。
夢を見ていない時も多い。圧倒的に見ていない時の方が多く感じる。だが、それは覚えていないだけで、本当は見ているのかも知れない。本の続きを夢で見ようという思いが強すぎるからだろう。
男の人に抱かれた夢を見ることもある。そんな時の夢はハッキリと覚えているもので、身体が夢の中で反応しているのか、起きてからも身体の奥から暖かい疼きを感じている。
もちろん、どんな男性だったかなど覚えているはずもなく、本を読んでいて、描写から想像する男性なのだろう。その人の腕に抱かれながら、智子は夢の中で、溺れていく。必ず覚めるはずの夢の中で、
――覚めないでくれ――
と願いながら……。
その願いは受け入れられることもなく目が覚めるが、そこには心地よさが待っていて、その日の活力になるのだ。
そんな日はしかし希である。ほとんどが、眠い目を強引に起こしながら、いつもと変わらない中途半端な目覚めを経験しなければならないのだ。
――皆、同じような気持ちで目を覚ますのかしら――
仕事に行っても、朝の挨拶だけは元気のいい人たちばかりで、朝一番はまともに顔を見ることができないほど、皆難しい顔をしている。
会社にいての智子は、誰が見てもキャリアウーマンだった。こなす仕事の量は半端ではなく、男顔負けの発言は、説得力がある。
だが、女として見られたい気持ちがどこかにある智子に、今の現状は、自己満足でしかない。
建設会社という仕事場が彼女を変えたわけではない。元々、男勝りのところがあった智子だっただけに、皆の見る目も自ずと男性を見ているような感じである。会社のうちでも外でも変わりなかった。あれは、高校の頃の同窓会があった時のことだった。
幹事は当時の学級委員、まとめることには、人一倍の才能を持っていると、高校の頃から皆から慕われていた人である。利用されやすいタイプの人かと思いきや、ちゃっかり、幹事としての任務を果たしながら、自分が得になることをしっかり吸収できるような人でもある。それが才能というものなのだろう。
幹事の男の子はそれなりに素敵ではあった。成績優秀、スポーツも幾種類もこなし、まわりの女性から、
「彼のような男性は、そう簡単にいないわ」
ともてはやされていた。
だからといって、智子は好きにはなれなかった。逆にどこか粗を探そうとしている嫌らしい自分がいることにも気付いていたし、もっと普通の男性が自分に合っているのではないかと感じていたからである。
桜の咲く頃、まだ肌寒い中の同窓会だった。新入社員の真新しいスーツが街に溢れている頃で、皆自分が新入社員だった頃を思い出していたはずである。智子も同じで、
――どんな気持ちで社会に出たのだろう? 今と変わったところがあるのだろうか――
と自問自答を繰り返していた。
新入社員の頃というのは、人生でも独特な時期である。一度しかない新鮮な時、特別な気持ちを抱いていたとしても不思議ではない。
「俺なんて、新入社員の女性ばかりしか見ていなかったからな」
と、悪びれた様子もなく、はしゃいでいる人もいる。高校時代、目立つことだけを考えていたような人で、とにかく輪の中心にいないと気がすまないタイプだった。
智子は、
「自分は、あんな風にはできっこないわ。私とは、住む世界が違うのよ」
と親友に話していたが、何と、その親友は、その男の子が好きだったようだ。
――これで、ライバルが一人減ったわ――
とほくそえんでいたに違いない。智子はそのことを知ると、なぜか不思議な気持ちに襲われていた。
――嫌いなタイプのはずなのに……
何となく気になり始めたのである。
――これって初恋?
作品名:短編集74(過去作品) 作家名:森本晃次